フランスの外交的孤立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
普墺戦争終結後、プロイセンはドイツ南部諸国と攻守同盟を結んだ。エムス電報事件の結果フランスがプロイセンへ宣戦したため、ドイツ南部諸国は盟約に基づいてプロイセン側に立って参戦する理由が生じた。更に、エムス電報事件はドイツ民族としてのナショナリズムを刺激した。南ドイツ諸国でもプロイセン側に味方すべきとの世論が高まった。結果として、南ドイツ諸国は速やかにプロイセン側に立って参戦した。 オーストリア=ハンガリー帝国やデンマークは、数年前にプロイセン相手に敗戦したことに対して復讐したいと考えてはいたが、フランスを信用できないことや、ドイツ南部諸国が早々にプロイセン側に立って参戦したこともあって、結局両国とも不干渉の立場を取った。 イタリア王国は当初参戦に乗り気で、13万規模の遠征軍をラインへ派遣する案まで出ていたが、その見返りとして要求したローマ教皇領返還をフランスが拒否した為、中立を宣言した。 また、ナポレオン3世はロシア帝国やイギリス帝国との同盟を深めることにも失敗した。その一部はプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの外交的努力の成果でもあった。結果的にフランスは単独でドイツ諸邦と戦うこととなった。
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