フランス、プロイセンとの連携
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:46 UTC 版)
「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「フランス、プロイセンとの連携」の解説
ゴルチャコフの当面の目標はクリミア戦争の敗北で結ばされたパリ条約(特に黒海における艦隊保有禁止)を破棄することであった。 そのために彼はロシアの立場を支持する協力国を欲したが、イギリスとは中央アジアをめぐる対立が根深く、またオーストリアともバルカン半島の利権をめぐって対立が深まっていた。プロイセン王国は、ドイツ連邦内でオーストリアと覇権争いをしていたが、当時のプロイセンは同盟相手としては力不足と看做されていた。そこで当初ゴルチャコフが目を付けた連携相手はイタリア統一問題をめぐってオーストリアと対立を深めているナポレオン3世のフランス帝国であった。1859年のイタリア統一戦争にロシアはフランス支持の立場を取った。 露仏関係はこの1859年に最も強化されたといえるが、1863年にロシア領ポーランドにおいてロシアの支配に抗するポーランド人の反乱(1月蜂起)が発生すると、「民族運動の保護者」を自負していたナポレオン3世は蜂起に共感を示し、イギリスやオーストリアとともに反露的立場を取った。そのためゴルチャコフの期待に反して露仏関係は急速に悪化した。 逆にプロイセン宰相ビスマルクはプロイセン領ポーランドへの波及阻止の観点からロシアに接近を図ってきた。結局ロシアはプロイセンとのみ連携を深めることとなった。
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