フランス-ヴェネツィア同盟
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「カンブレー同盟戦争」の記事における「フランス-ヴェネツィア同盟」の解説
1513年5月下旬になると、ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ率いるフランス軍はアルプス山脈を超えてミラノへ進軍を開始し、時を同じくしてバルトロメオ・ダルヴィアーノとその配下にあるヴェネツィア軍もまたパドヴァを発って西に向かった。スイス傭兵の傀儡と見なされていたマッシミリアーノ・スフォルツァがミラノ公になった事は町の反感を買っていたため、フランス軍は大した抵抗も無くロンバルディアにまで到達する事ができた。ミラノを手中に収めた後、トレモイユはスイス傭兵が篭城したノヴァーラへの攻城戦を始めたが、数で劣るスイス側の援軍との戦闘によって敗走に追い込まれた(ノヴァーラの戦い)。スイス傭兵は撤退するフランス軍を執拗に追撃し、賄賂によって撤退するまでにアルプスを越えてフランス中部のディジョンにまで攻め込んでいる。 ノヴァーラでの敗北はフランスとその同盟国にとって情勢の決定的悪化をもたらした。ヘンリー8世率いるイングランド軍はフランス北部の都市テルアンヌを包囲し、スパーズの戦い(英語版)で敗北したラ・パリスは当時フランス領だったトゥルネーを失った。ナバラではアラゴン王フェルナンド2世の軍勢に防衛線を突破され、ギュイエンヌへ攻撃を仕掛けていたイングランドの別働隊との合流を許した。ルイ12世はスコットランド王ジェームズ4世にイングランドへ侵攻するよう要請し、ヘンリー8世の注意をフランスから引き離そうとした。だがフロドゥンの戦い(英語版)によってスコットランド軍は大敗し、ジェームズ4世の戦死によって彼の目論みは崩れ去った。 一方、フランスの支援を受けられなくなったダルヴィアーノとヴェネツィア軍は、カルドナ率いるスペイン軍の追撃を逃れてヴェネト州にまで撤退した。ヴェネツィア人の強い抵抗に直面したスペイン軍はパドヴァの攻略を諦めてヴェネツィア領を突き進み、9月下旬には遂にヴェネツィアの城壁にまで達した。カルドナは都市を占領しようと砲撃や海岸からの上陸作戦を行ったものの、いずれも失敗したためロンバルディに退いた。ヴェネツィア貴族の援助を受けて軍を強化したダルヴィアーノはカルドナを追い、両軍は10月7日にヴィチェンツァで衝突した。ラ・モッタの戦い(英語版)として知られるこの戦闘の結果、ヴェネツィア軍は致命的な敗北を喫し、敗戦を恐れた多くの貴族がヴェネツィアから先を争って脱出していった。 しかしながら、神聖同盟は一連の勝利を戦争全体の勝利に繋げる事には失敗した。カルドナとダルヴィアーノは1514年を通してフリウーリで小競り合いを続けたものの、両者の決着が着くことは終戦に至るまで遂に無かった。求めていた領地の獲得に失敗したヘンリー8世は同盟を離脱し、単独でフランスと和平を結んだ。決定的だったのは神聖同盟を指導してきた教皇ユリウス2世が死去した事だった。新たに聖座を引き継いだレオ10世は軍事に関心を持たない教皇で、以後教皇軍の動きは防衛的なものとなった。 1515年1月1日、ルイ12世が死去し新たにフランソワ1世がフランス王に即位した。彼は自らの戴冠式でミラノ公の称号を受け継いだ事を宣言し、直ちにイタリア半島におけるフランス領の再興を目指した。7月下旬になると、フランソワ1世は軍をドーフィネに集結させ、イタリアへ侵攻する準備を始めた。スイス傭兵と教皇軍はフランス軍のアルプス山脈越えを阻止しようとミラノ北部に防衛線を張ったものの、ジャン・ジャコモ・トリヴルツィオの助言を受けたフランソワ1世はストゥーラ谷を経由する迂回路を進んでイタリアへの侵入を果たした。フランス軍の先遣隊は不意を突かれたミラノの騎兵隊をヴィッラフランカで破り、コンドッティエーレの一人プロースペロ・コロンナを捕らえる事に成功した。一方、フランソワ1世とその主軍はマリニャーノの戦い(英語版)でスイス傭兵と激突した。序盤はスイス側が優勢だったものの、フランス騎兵隊・砲兵隊の活躍やダルヴィアーノ率いるヴェネツィアからの援軍もあり、フランス側の大勝に終わった。時に1515年9月14日の事であった。
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