宰相カプリヴィ時代
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「宰相カプリヴィ時代」の解説
ビスマルクの後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相には海軍大臣レオ・フォン・カプリヴィが任じられた。彼は普仏戦争で活躍した軍人であり、政治家経験はなかったが、人望が厚く、老皇帝ヴィルヘルム1世もビスマルクが辞職する日が来た時には後任の宰相に、と考えていた人物であった。ビスマルクも辞職の際に後任の宰相として彼を推挙している。またカプリヴィはホルシュタインが影響力を持っている人物でもあり、ホルシュタインとビスマルクの妥協の人事であったともいえる。 ヴィルヘルム2世とカプリヴィは、ビスマルク時代と方針を転換して、労働者保護政策を推進した。この方針転換は「新航路 (Neue Kurs) 」と呼ばれた(ヴィルヘルム2世は「航路は従来のまま、全速前進」と述べていたが、実際にはビスマルク時代から大きな変更が加えられたことから新聞などによってこう呼ばれるようになった)。1890年5月に「労働裁判所に関する法律」と「営業条例改正に関する法律」の法案を帝国議会に提出し、1890年6月に「労働裁判所に関する法律」がほぼ修正なしで決議された。これにより労働争議を調停する裁判所が設置されることとなった。この労働裁判所は陪審員が雇用者と労働者の代表から半々ずつ出され、労働者が労働争議に際して雇用者と対等の立場で議論できる画期的な制度であった。営業条例改正法案の方は1891年に成立し、これは「2月勅令」で予告した日曜労働の禁止、女性の夜勤の禁止、13歳以下の少年の労働の禁止、また16歳以下の男女の労働時間の上限をそれぞれ10時間、11時間に制限し、現物賃金支払いも禁止するものだった。 こうした「新航路」政策が行われた背景には、与党「カルテル」3党がぼろぼろになった今、左派自由主義勢力と中央党を懐柔したいという思惑があった。そして労働者をドイツ社会民主党 (SPD) から切り離し、政府を支持させる意図があった。 しかし、カプリヴィは1892年初頭に帝国議会第一党であるカトリック政党中央党に迎合するため、ビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める学校教育法の法案を議会に提出した。これは議会内の自由主義勢力の激しい反発を招き、廃案に追い込まれた。ヴィルヘルム2世もカプリヴィの提出したこの法案に対して「絶対反対」の立場を示した。これはフィリップ・ツー・オイレンブルクがヴィルヘルム2世に「学校教育法は中道政党と共同して行うべきで自由主義勢力の怒りが帝政に向かってこないようにしなければならない」と手紙で書き送ったためであるらしい。この騒ぎで1892年3月にカプリヴィはプロイセン宰相職を辞してドイツ帝国宰相職のみに留まることとなった。後任のプロイセン宰相にはオイレンブルクの兄であるボート・ツー・オイレンブルク伯爵が任じられた。ドイツ帝国宰相とプロイセン王国宰相職が分離したことはカプリヴィの権力を弱めることとなった。 カプリヴィは1893年に「小通商条約」を可決させ、1894年にはロシアとの間に通商条約を結ぶなど自由貿易政策を推進したが、農業関税引き下げに激怒した国内農業勢力の激しい反発にあった。 「新航路」政策によって労働者が政府支持に転じると思っていたヴィルヘルム2世だったが、彼はその効果をあまりに性急に求めたために効果が薄いと感じるようになり、「新航路」政策に疑問を感じるようになった。そこで再び弾圧法規路線に戻った。1894年9月、ヴィルヘルム2世とボート・ツー・オイレンブルクは「転覆政党に対する闘い」と称して「転覆防止法 (Umsturzgesetz) 」という政府への政治的反対行為の処罰を強化する法律を提起した。議会の反発を買うことを恐れたカプリヴィがこれに反対し、結局ヴィルヘルム2世は1894年10月26日にカプリヴィもボートもそろって宰相職から罷免した。この決定もリーベンベルクにおいて、つまりオイレンブルクとヴィルヘルム2世によって決定されたようである。オイレンブルクは1894年初頭頃からホルシュタインとヴィルヘルム2世の間を仲介しているだけの存在から卒業し、ヴィルヘルム2世に独立して影響力を発揮するようになっていた。 カプリヴィ時代が終わると「新航路」も終わりを迎えた。 ドイツ帝国宰相レオ・フォン・カプリヴィ伯爵 プロイセン宰相ボート・ツー・オイレンブルク伯爵
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