宰相ビスマルク時代
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「宰相ビスマルク時代」の解説
1889年5月にルール地方炭鉱の労働者が大規模なストライキを起こした。これに対してビスマルクは自由主義ブルジョワが社会主義勢力をもっと危険視するよう紛争の解決は当事者に任せようと考え、私有財産保護のために警察と軍隊を投入する以上のことは何もしなかった。 一方、ヴィルヘルム2世は事前通告なしで突然に閣議に乗り込んで経営者たちを批判して労働者支持を表明した。5月14日にはベルリンを訪れた三人の工夫代表者を引見し、ドイツ社会主義労働者党(ドイツ社会民主党の前身)の扇動にのって公共の安全を脅かす行為は辞めるよう要求する一方、彼らの陳情に良く耳を傾けた。企業家たちに対しては労働者の賃金上昇に応じるよう求め、応じないのであれば治安維持にあたらせている軍隊を撤収させると脅し付けた。またこの地域の軍司令官の報告書を読んでヴェストファーレン県(ドイツ語版)知事ロベルト・エドゥアルト・フォン・ハーゲマイスター(ドイツ語版)の怠慢と断じてビスマルクにその更迭を命じた。 ヴィルヘルム2世はストライキと社会主義労働者党との関連性を否定し、またストライキが長引けば石炭が不足し、安全保障にも影響すると懸念していたが、ビスマルクはこの争いを期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法更新のための社会主義勢力への攻撃材料にすることにのみ専心していた。 ビスマルクは毎年数か月は領地へ帰る癖があったが、この年も6月には領地へ帰り、翌年1月までベルリンを不在にした。この間にヴィルヘルム2世は対ロシア強硬派のヴァルダーゼー将軍や外務省参事官ホルシュタイン、反ユダヤ主義者のシュテッカーなど反ビスマルク派の影響を強く受けるようになった。またヒンツペーター教授は社会問題に積極的に取り組むべきだと説いていた。ヴィルヘルム2世は、ヒンツペーター教授をはじめとして労働者問題に通じた識者を助言者にして労働者保護勅令の準備を開始した。 しかしビスマルクの方向性はそれとは正反対であり、彼は期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法の無期限延長法案を10月に帝国議会に提出した。1890年1月24日の御前会議においてヴィルヘルム2世は再び「ドイツ企業家が労働者をレモンのように絞っている」事を批判し、「私は貧者の王たることを欲する」と宣言した。ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法について追放条項の削除を求めてビスマルクと激しい論争をした。ヴィルヘルム2世はビスマルクが社会主義者鎮圧法否決に乗じて内乱を起こそうとしていると感じ、「我が治世の初期が臣民の血で染まる事を望まない」と釘を刺した。 1890年2月1日には日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止、労働者保護国際会議のベルリン開催の呼びかけなどの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令(ドイツ語版)」が発せられた。保守的なビスマルクはこの勅令に反発し「社会問題はもはや薔薇香水で解消できない。鉄と血で解決される」などと述べた。ビスマルクはこの勅令への副署を拒否したうえ、ベルリン労働者保護国際会議の開催の妨害工作を行った。この件でヴィルヘルム2世はビスマルクに決定的な嫌悪感を持ったという。 1890年2月20日の帝国議会選挙はビスマルクを支える「カルテル」3党(保守党、帝国党、国民自由党)の敗北に終わった。ビスマルクは先の帝国議会で否決された社会主義鎮圧法を再度提出し、また否決確実の軍制改革法案も一緒に提出して議会との紛争状態を作ることでクーデタを起こすことを計画した。さらに3月2日の閣議でビスマルクはヴィルヘルム2世を封じ込めようと1852年プロイセン閣議命令の遵守を閣僚たちに求めたが、これにヴィルヘルム2世は激怒し、3月5日にブランデンブルク州議会での演説において「私の行く手を遮る者は粉砕する」と宣言した。 ビスマルクを切る事を決意したヴィルヘルム2世は、ビスマルクに帝国議会との協調のうえでの法案を成立させることを命じることで彼の企むクーデタの道を塞ぎ、1890年3月18日にビスマルクを辞任に追いやった。ここに1862年以来のプロイセン宰相、1871年以来のドイツ帝国宰相であるビスマルクは退任した。 即位前のヴィルヘルム2世はドイツ帝国の建設者であるビスマルクを尊敬していたが、即位後には親政に邪魔な存在となっていた。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって社会主義者鎮圧法は延長されないことが最終的に確定されると同時に「世界政策」と呼ばれる帝国主義的膨張政策が展開されていくことになる。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、ロシア帝国やイギリス帝国との関係を悪化させることになる。 1889年の宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵を描いた肖像画 労働者保護勅令「2月勅令」を描いた挿絵 ビスマルクとヴィルヘルム2世(1888年)
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