世界政策
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ナビゲーションに移動 検索に移動世界政策(ドイツ語:Weltpolitik)は、帝国主義の時代におけるドイツの外交および植民地政策を意味する。一般的な意味では、国際政治全体における全ての政治的プロセスと、これら全てのプロセスに決定的な影響を及ぼそうとする試みを意味することもある。
1900年頃のドイツの世界政策
帝国主義の時代において、世界政策は特に植民地の獲得に関する列強諸国のあらゆる決定に参加できるというドイツ帝国の主張として理解されていた。この主張は、1897年12月6日の帝国議会で、新任のベルンハルト・フォン・ビューロー外相が「誰も日陰に追いやりたくはないが、我々もまた陽のあたる場所にいたい(„Wir wollen niemand in den Schatten stellen, aber wir verlangen auch unseren Platz an der Sonne.“)」と述べたことで公式化された。このような主張は、ヴィルヘルム2世の治世において、帝国建設の延長線上にあるものと解されたのである。具体的には、それはオットー・フォン・ビスマルクが成し遂げたドイツの統一と、それを守るための外交政策が成功した後、第二段階として計画されたドイツの植民地帝国の建設および拡大であった。1895年、国民的経済学者のマックス・ヴェーバーは、フライブルク大学の教授就任講演で以下のように言及した。
我々は、ドイツの統一は列強政策の出発点ではなく、国家が老境に入って犯した若々しいイタズラであり、経費が嵩む為にやめておくべきであっただろうことを理解しなければならない。
1880年代のドイツにおける植民地化運動とは対照的に、ドイツの世界政策への要求は、特定の経済的、社会的、あるいは宣教的な側面よりも、社会進化論の観点から解釈された列強間の競争における国家の威信および自己主張の問題に焦点を当てていた。「後発国」としてのドイツは、今や正当な分け前を要求しなければならないのである。
この世界政策を政治的に表現したのは、新たな海外領土の獲得ではなく、むしろそれは1896年のクリューガー電報事件、1905年と1911年の2度に亘るモロッコ事件、イギリスとの海軍軍拡競争など、対外的に要求し主張する姿勢に現れていた(1896年以降、ドイツ帝国が植民地帝国に加えることができたのは、膠州湾、サラガ地域(ガーナ北東部)、ノイカメルーンに加えて、いくらかの南海の島々のみであった)。このようにして、ドイツ帝国は植民地をもつ列強の輪の中で孤立を深めてしまった。遅くとも1906年以降のイギリスのドレッドノートの出現により帝国海軍は2位に追いやられ、1907年の英露協商および三国協商の完成によって、ドイツの世界政策は失敗に終わったのである。
なぜドイツ帝国がこのような世界政策をとったのかは、学術的にも議論されている。ヴォルフガング・J・モムゼンおよびグレゴール・シェルゲンは、世論の圧力が帝国政府の外交政策に影響を与えるようになったことが原因だと考えている。一方、ハンス=ウルリッヒ・ヴェーラーは、ドイツの世界政策を社会帝国主義として、「国内の政治的目的のために拡張主義政策を冷静に計算して利用した」と説明している。対外的な成功は、ヴィルヘルム2世の治世における階級社会の内部矛盾から目をそらし、革命的な労働者階級を国家に接近させ、必然的な近代化を回避するためのものと考えられていた。しかし、1912年の帝国議会選挙におけるドイツ社会民主党の成功が示すように、この計算も失敗に終わった。
関連項目
世界政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:29 UTC 版)
詳細は「:w:Wilhelminism」を参照 1888年に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクと対立し、1890年にビスマルクを更迭した。ヴィルヘルム2世は親政により帝国主義政策を実行した。まず建艦し太平洋へ進出した。さらに債権国としてオスマン債務管理局をめぐり英仏と対立した。 プロイセン王国のときに増してオランダとの協力関係は実際的であった。1903年7月19日にフェルテン・ギヨーム社は子会社ドイツ=オランダ電信会社を設立した。翌年、同社のケーブル製造子会社北ドイツ海底ケーブル会社が、ヤップ島から三本のケーブルを敷設した。一つはセレベス諸島のメナドにいたり、そこでオランダの東インドケーブルへ接続した。二つ目はグアムまで引かれ、太平洋ケーブルと接続した。三つ目は上海まで引かれ、そこで別のケーブルによって膠州までリレーされた。 この1903年、(アリアンツなどの)ドイツ企業が米国企業の再保険を引受けるようになった。まだ合衆国には代理店を出せず、取引を再保険に限り、ヨーロッパ企業を通して受注していた。必ずしも不便に甘んじたわけではなく、元受と同一条件で引き受けていた。この再保険は保険会社同士の互助ではなく、ドイツの新規開拓事業であった。そのドイツ保険会社は合衆国の再保専門会社等に継承された。同年、AEGがゼネラル・エレクトリックからウニオン社を吸収合併する合意をとりつけた。 1905年、ドイツは第一次モロッコ事件でフランスに強硬姿勢をとった。 一方、アメリカ資本の激動が三国協商の完成期としては奇妙な現象を引き起こした。 ドイツの金貨が1907年恐慌でイングランド銀行へ輸出されたのである。1907年10月22日から12月31日までに383.8万ポンド。イギリスからはドイツコインが輸出された形跡はない。英米間ではイングランド銀行からのドル金貨が439.3万ポンド、イングランド銀行へのドル金貨が322.6万ポンド、純輸出が106.7万ポンド。金塊での純輸出は554.9万ポンドである(698.1-143.2)。ドイツの金貨はイングランド経由でアメリカへ渡ったものとみるのが妥当である。ライヒスバンクの1912年12月末の貸借対照表によれば、外国為替手形保有高は200万ポンド以上であり、その半分近くがイギリスに投資されていた。
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