中国史における役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 02:34 UTC 版)
20世紀前半の中国史では唐の世界政策を羈縻政策に則ったものとする見方が有力であったが、西嶋定生が冊封に注目した東アジア世界論(冊封体制論)を提唱してからは冊封体制に重点が移された。とはいえ羈縻政策と冊封は必ずしも対立するものではなく、渤海王が忽汗州都督として羈縻政策に組み込まれているように補完的な関係も見出される。突厥の可汗についても唐(隋)と突厥に父子(舅婿)関係や君臣関係があったとし冊封関係を適用する見方から、『新唐書』「太宗紀」に太宗が「天可汗」と号したとあることから突厥はこのときすでに羈縻支配に移行していたとみる説もある。 また、ひろく府兵制などと羈縻政策を関連付ける見方や、羈縻政策とは冊封と直接支配の中間に過ぎずその後退によって冊封関係が主流となったとする見方などが存在し、羈縻政策についての評価は必ずしも一定ではない。
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