中国史料における任那
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 11:52 UTC 版)
『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含む。 『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。 広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。 『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。 『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。 525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。 『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。 『通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。 『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。 なお、宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。
※この「中国史料における任那」の解説は、「任那」の解説の一部です。
「中国史料における任那」を含む「任那」の記事については、「任那」の概要を参照ください。
- 中国史料における任那のページへのリンク