中国史書による記述とは? わかりやすく解説

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中国史書による記述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 02:04 UTC 版)

統葉護可汗」の記事における「中国史書による記述」の解説

618年射匱可汗亡くなると、弟の統護(トン・ヤブグ)が立って可汗となる。統葉護可汗智謀があり、武勇優れ遂に北の鉄勒併合し、西の波斯サーサーン朝)を拒み、南の罽賓けいひん)と境を接するまでになり、西域に覇を唱えた西域諸国王は頡利発(イリテベル:官名)の官位授かり統葉護可汗は吐屯(トゥドゥン:官名1人派遣して統括させ、その征賦を監督した。旧烏孫の地に拠り可汗庭(首都)を石国(チャーシュ:現タシュケント)の北の千泉(ビルキー birkī:現ジャンブール州メルキ)に移した武徳2年619年2月聊城竇建徳宇文化及攻めて、これを斬り、その首は突厥義成公主のもとへ送られた。7月統葉護可汗高昌はともに唐に遣使を送って朝貢した。 武徳3年620年3月、ふたたび統葉護可汗高昌王の麴伯雅は唐に遣使を送って朝貢し、突厥條支の巨(巨卵)・獅子の革を貢納した武徳5年622年)春、東突厥飢餓遭って弱っていることを聞いた唐は、統葉護可汗と共に東突厥討った。その年の冬統葉護可汗は東可汗頡利可汗(イリグ・カガン)と和睦した武徳9年626年)、統葉護可汗は唐に遣使を送って婚した高祖はこれを許可し高平道立西突厥派遣して返事伝えた。すると統葉護可汗大喜びし、翌年貞観元年627年)、また使者真珠統俟斤(インチュ・トン・イルキン)を遣わして釘宝鈿金帯・馬五千匹を献上した。しかし、東突厥毎年唐の辺境侵すので、唐~西突厥間の道が遮断され結婚果たされなかった。 時に統葉護可汗自国強盛であるのを自負し支配下の国に恩がなく、部衆は怨み抱き始め遂に葛邏禄カルルク)種の多くがこれに離反したそうした中、貞観2年628年)、統葉護可汗伯父(諸父)の賀咄(バガテュル)に殺され可汗位を簒奪されてしまう。太宗統葉護可汗の死を聞き甚だこれを追悼した

※この「中国史書による記述」の解説は、「統葉護可汗」の解説の一部です。
「中国史書による記述」を含む「統葉護可汗」の記事については、「統葉護可汗」の概要を参照ください。

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