ヴィルヘルム2世の世界政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:10 UTC 版)
「ドイツの歴史」の記事における「ヴィルヘルム2世の世界政策」の解説
ヴィルヘルム1世が死去し、続くフリードリヒ3世が早逝すると、若年のヴィルヘルム2世が即位した。このときも宰相は継続してビスマルクがつとめたが、対外政策で意見が合わず、1890年ビスマルクは事実上更迭された。 ビスマルク更迭後、ヴィルヘルム2世は皇帝専制政治を行い、内政においてはビスマルクの政策を否定し、1890年に社会主義者鎮圧法を廃止した。そして、かねてより目指していたドイツの世界政策に乗り出す。中心となったのは植民地再分配であった。そのために海軍力の増強を目指し、結果イギリスとの建艦競争に陥り、対英関係を悪化させた。また、帝政ロシアとの再保障条約を解消し、ロシアとフランスの接近を許したことにより、露仏同盟形成の原因を作った。アジア進出も視野に入れ、イギリスの3C政策に対抗し、3B政策を展開。これにより、イギリスとの関係をますます悪化させ、英仏協商・英露協商の形成の遠因を作った。これらの政策により、ビスマルク体制は完全に崩壊し、対仏包囲網もいつの間にか対独包囲網に変化していった。
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