宰相ホーエンローエ時代
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「宰相ホーエンローエ時代」の解説
カプリヴィの後任としてドイツ・プロイセン宰相に就任したクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯爵は帝国議会を重んじ、「転覆防止法案」などの弾圧法規はドイツ社会民主党(SPD)や中央党、自由主義勢力との不毛な対立を招くと反対していたのだが、彼は指導力が無かったため皇帝やその側近の意向を無視できない立場にあり、結局「転覆防止法案」を議会に提出せざるを得なくなった。 しかしすでに弾圧法規思想は後退しており、そうした法案を議会で可決させるのは難しかった。1894年年末に帝国議会に提出された「転覆防止法案」は1895年5月1日に否決されている。1897年5月には公安を乱す恐れのある集会の解散を命じる権利を警察に認める内容の「結社法改正法案」がプロイセン王国議会下院に提出されたが、やはり否決された。1899年6月に「懲役法案」と呼ばれた「工場労働関係保護法案」(労働者の団結権を奪い、スト破りを妨害しようとした者は禁固刑か懲役刑に処するという内容)が帝国議会に提出されたが、圧倒的多数でもって否決されている。弾圧法規が次々と否決される中、皇帝周辺では議会に対する「クーデタ」の噂が囁かれた。この噂は中央党を与党化するのに大きな効果があった。中央党の与党化の最初の一歩は艦隊法であった。 1897年6月にドイツ東洋艦隊司令官アルフレート・フォン・ティルピッツが海軍大臣に任じられ、さらに10月にはオイレンブルクと親しい関係にあるベルンハルト・フォン・ビューロー伯爵(後に侯爵)が外相に任じられた。これらはヴィルヘルム2世の「世界政策」を推進するためにオイレンブルクが考えた人事であった。ティルピッツが中心となり大規模な建艦計画が立てられた。それに基づいて1898年3月28日に第一次艦隊法、1900年6月12日には第二次艦隊法が帝国議会で可決された。第二次艦隊法では現在27隻の戦艦を38隻に増強することが定められた。 社民党は艦隊法を大工業の利益に奉仕する物として批判していたが、中央党はじめ多くの政党が賛成したために可決された。これは「ドイツ艦隊協会」(海軍省や軍需産業クルップなどの後押しで創設され、約80万人の会員を有する)による大衆的圧力が各党にかけられていたためである。また皇帝の議会に対する「クーデタ」の噂を中央党が恐れていた事も背景となっていた。 ホーエンローエは1900年10月16日に老齢を理由に宰相を辞することとなったが、中央党と政府の協力関係は後任の宰相ビューロー侯爵の政権前半期にも続く。 1896年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世一家 宰相クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯爵 海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツ
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