宰相孟嘗君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)
紀元前301年、昭襄王はその賢を聞いて、弟の公子巿(涇陽君)を斉に人質として出し、孟嘗君に会見を求めた。 孟嘗君はこれに応じて秦に行こうとしたが、蘇代が諌めたのでとりやめた。しかし紀元前298年、斉の湣王は孟嘗君を秦に入国させた。 昭襄王は念願かなって孟嘗君と会い、その賢を絶賛して宰相として礼遇した。しかし、ある人が「孟嘗君が当代一流の人材であることは認めますが、斉の人でありますから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いありません。さりとて帰せば斉の利の為に働き、ひいては秦の脅威となるでしょう」と進言し、昭襄王はこれを信じ、謀殺しようとした。 紀元前297年、孟嘗君は食客の力を借りて斉に逃亡した(鶏鳴狗盗)。 紀元前296年、斉の宰相となっていた孟嘗君は、斉・韓・魏を主力とし、趙(に併合されていた中山)・宋の軍と合わせて秦に攻め込んで来た。秦は函谷関で敗れた(塩氏の戦いまたは五国攻秦の戦とも)。 昭襄王は敗戦後の処理を、孟嘗君に代わり宰相となっていた楼緩に、「河東の地を割いて三国(斉・韓・魏)と講和したいと思うが、どうだろう」と尋ねた。楼緩は「このような国の大事を決めるのは重臣方の任務です。どうして公子池さまを召されないのですか」と答え、罪に陥れられることを避けた。 昭襄王は公子池を召して改めて尋ねた。公子池は「講和されてもされなくても後悔されましょう」と言った。昭襄王が「どうしてか」と問うと、公子池は、「河東の地を割いて三国の兵が引き揚げれば、きっと『惜しいことをした。三国が引き揚げようとしたところへ、河東をくれてやるとは』とおっしゃるでしょう。その反対に、講和されなければ咸陽は危うくなり、きっと『惜しいことをした。たった河東の地三県を惜しんだばかりに大敗した』とおっしゃるでしょう」と答えた。 昭襄王は公子池の進言を容れ、河北および封陵の地を与えて和睦した。
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