宰相府との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 05:24 UTC 版)
「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事における「宰相府との戦い」の解説
ヤシュワント・ラーオをシンディア家よりも怒らせていたのはプネーの宰相府だった。 1801年4月16日、宰相バージー・ラーオ2世は領内で捕えたヴィトージー・ラーオを象に踏みつぶさせて殺すという極めて残虐な方法で処刑していた。これにより、バージー・ラーオ2世はヤシュワント・ラーオの恨みを買うこととなった。 1802年5月、ヤシュワント・ラーオはプネーに向けて進撃した。彼は宰相に対してこれらの合意に応じた場合、戦闘行為にやめるという旨を宰相府に送った。 シンディア家によってカンデー・ラーオ・ホールカルが解放されること カンデー・ラーオ・ホールカルをカーシー・ラーオ・ホールカルに代わる当主として認めること シンディア家がホールカル家の所有物を返還すること シンディア家がホールカル家の北インドの領土を返還すること だが、宰相府とシンディア家はこれに応じなかったため、ヤシュワント・ラーオは進撃をつづけ、マーレーガーオン、アフマドナガル、プランダル、ナーシク、ナーラーヤンガーオン、ネールなどを次々に落とし、プネーに迫った。 そして、同年10月25日にヤシュワント・ラーオはバージー・ラーオ2世とシンディア家の軍を破り(プネーの戦い)、宰相府プネーを占領した。バージー・ラーオ2世は宰相府を捨て、プネーから逃げざるを得なかった。ヤシュワント・ラーオはプネーにとどまり、その周辺地域を数ヶ月間にわたり略奪した。とはいえ、彼はバージー・ラーオ2世に投獄されていた人々らを解放している。 1803年3月13日、ヤシュワント・ラーオは共同の当主であるカンデー・ラーオを連れて本国へと帰還した。
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