宰相范雎とは? わかりやすく解説

宰相范雎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)

昭襄王」の記事における「宰相范雎」の解説

紀元前265年范雎言上して「かつて夏・殷・西周三代滅んだ理由は、君主政治臣下任せきりであったためでした。今、秦では諸大史や王の左右近侍に至るまで、すべて穣侯の徒党でない者はなく、王ひとりが孤立してます。私はひそかに王のためにこれを恐れています」と言った。 これを聞いた昭襄王大い恐れ宣太后廃し魏冄宰相職を免じたまた、魏冄涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放した范雎宰相となり、食邑の応に封じられ、応侯と号した2年前に亡くなった悼太子代わりに安国君こと公子(後の孝文王)を太子指名した紀元前264年に、秦に従わない韓を白起命じて討った陘城の戦い)。 紀元前264年頃襄王が病で倒れたため人質として秦にいた太子完は帰国願い出た昭襄王は、「まず太子の傅(教育係)である春申君遣わし病気見舞わせた上で取り計らおう」と答えた春申君一計案じ太子完に「楚王は病のため、おそらくは再起できない思われます。太子帰国されなければ陽文君(中国語版の子が後を継ぎ太子宗廟仕えることができなくなるでしょう使者一緒に秦を抜け出されるの上策思います。私は踏みとどまって、死を賭してに当ります」と言った太子完は衣服変え使者御者なりすましてひそかに出国し春申君太子逃げるまで病と称して外出しなかった。 春申君しばらくしてから昭襄王申し出て、「太子帰国しました逃がした私の罪は死に当ります。どうか死罪賜りますように」と言った昭襄王大い怒り自害許そうとしたが、范雎が「春申君人臣として一身投げ出して主君殉じました。もし太子が位に即けば、かならず春申君重用します。ここは罰しない帰国させ、親しむのがよろしいかと思いますと言ったので、春申君帰国許した

※この「宰相范雎」の解説は、「昭襄王」の解説の一部です。
「宰相范雎」を含む「昭襄王」の記事については、「昭襄王」の概要を参照ください。

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