宰相間の権力闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 07:20 UTC 版)
その後、戸部尚書、兵部尚書を歴任する。開元24年(736年)には、張九齢・裴耀卿の反対がある中で、玄宗の意を読み、洛陽から長安への帰還を勧め、実行させる。 また、玄宗が朔方節度使の牛仙客を尚書に任じようとした時に、張九齢が猛烈に反対し、玄宗の怒りを買うことがあった。李林甫は「張九齢は書生で大きなかたちに通じていません。才能があるなら、学問は必要ありません。天子が用いてはいけない道理がないでしょう」と、玄宗に語ったといわれる。 その頃、太子李瑛・鄂王李瑶・光王李琚が母が武恵妃に玄宗の寵愛を奪われた件で集まって恨み言を言っていたことが露見し、武恵妃が玄宗に訴えるという事件が起きた。玄宗は宰相を集め、李瑛の廃立を建議したが、張九齢は猛反対した。李林甫は何もいわず、下がってから宦官に「これは主上の家事であるから、他者が語るところではない」と伝えた。さらに、張九齢と仲がよかった厳挺之の離縁した妻の夫の王元琰の贈賄事件にからめ、朋党をなした名目で張九齢・裴耀卿の実権を奪うことに成功する。厳挺之は左遷。王元琰は流刑となった。 李林甫は中書令を兼ね、牛仙客も宰相となった。これから、朝廷の臣は保身に入り、直言するものはなくなったという。李林甫は堂々と諫官を集め、「多言する必要はない。杖の側に立つ馬は、一声鳴けば追い出されるであろう。それから後悔しても手遅れなのだ」と語った。 開元25年(737年)、監察御史の周子諒が牛仙客を宰相の器ではないと、讖書を引き合いにだしたため、玄宗が怒って周子諒を打ち殺す事件があった。李林甫は周子諒が張九齢の推薦した人物であることを理由に荊州長史に左遷させた。 玄宗は李林甫が容喙してこないことを確認した上で、太子李瑛・李瑶・李琚を庶人とし、さらに自殺を命じた。李林甫は晋国公に任じられた。この年に律令の改定を行い、「唐律」とその注釈書「疏議」を完成する。この頃、租庸・防丁・和糴などの毎年の報告を50万枚以上もの書類が要していたものを州ごとに2枚で済むように改変している。
※この「宰相間の権力闘争」の解説は、「李林甫」の解説の一部です。
「宰相間の権力闘争」を含む「李林甫」の記事については、「李林甫」の概要を参照ください。
- 宰相間の権力闘争のページへのリンク