宰相就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/13 19:49 UTC 版)
「バーラージー・バージー・ラーオ」の記事における「宰相就任」の解説
1740年4月28日、父である宰相バージー・ラーオが死亡したのち、若干19歳の息子であるバーラージー・バージー・ラーオが事実上世襲する形で、マラーター王国の宰相となった。 この世襲に関しては、かつてバーラージー・バージー・ラーオの父バージー・ラーオが祖父バーラージー・ヴィシュヴァナートから宰相位を世襲したときと同様、マラーター王シャーフーに認められていた。
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宰相就任
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「バージー・ラーオ2世」の記事における「宰相就任」の解説
1775年1月10日、バージー・ラーオはマラーター王国の廃位された宰相ラグナート・ラーオとその妃アーナンディー・バーイーの息子として生まれた。 父であるラグナート・ラーオは宰相復帰をめざし、同年3月にイギリスとスーラト条約を結び、彼を失脚させた財務大臣ナーナー・ファドナヴィースとの戦争へと向かった(第一次マラーター戦争)。彼は1782年5月に講和成立するまで戦い続けたが、宰相には復帰できず、ナーナー・ファドナヴィースが王国の実権を握り続けた。 だが、1795年10月に宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンがプネーで自殺すると、マラーター諸侯らの間に紛争が起き、バージー・ラーオもこれに参加した。 結局、1796年12月4日にバージー・ラーオがナーナー・ファドナヴィースの支持により、バージー・ラーオ2世として王国の宰相となった。だが、彼の統治は名目上のもので、ナーナー・ファドナヴィースが実際の統治にあたっていた。
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