マラーター王国の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 10:03 UTC 版)
「ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事における「マラーター王国の台頭」の解説
そして、これらの地方の独立はマラーター王国の更なる増長とその版図拡大を招く結果となり、強力な指導者が現れたことで最盛期を迎えることとなった。皇帝ムハンマド・シャーがサイイド家の横暴を終わらせた年、マラーター王国でもある転機がおとずれた。 1720年4月12日、マラーター王国の宰相バーラージー・ヴィシュヴァナートが死亡し、息子バージー・ラーオが20歳で新たな宰相に就任した。宰相就任後、バージー・ラーオはすぐにニザーム王国との戦争を開始し、その後北に転戦してムガル帝国と戦った。マラーター軍は彼自身によって率いられており、士気はとても高く、各地でムガル帝国軍を打ち破った。 バージー・ラーオはマールワーやグジャラート、ハーンデーシュを支配下に置き、1730年後半までマラーター王国の版図を帝国と呼べる広大なものとした。また、彼は随行した武将であるマラーター諸侯(サルダール)に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった(マラーター同盟)。 そして、1737年3月にマラーター王国軍はムガル帝国の首都デリーを攻撃した(デリーの戦い)。帝都デリーは陥落を免れたものの、マラーター軍にデリー近郊を略奪され、帝国の北インドにおける支配がマラーターに移ったことを示す出来事だった。 こうして、アウラングゼーブがデカン戦争で獲得したデカンの支配権はその死後30年でマラーターに取って代わられ、過去の皇帝たちが獲得した領土までマラーターに奪われてしまった。事実上、インドの支配権はムガル帝国からマラーター同盟に移り、ムガル帝国に取って代わる強大な国家となり、マラーター同盟のインドの3分の2近くを支配する広大な領土は、「マラーター帝国」とも呼ばれた。
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