マラーター戦争と保護国化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 14:27 UTC 版)
「ガーイクワード家」の記事における「マラーター戦争と保護国化」の解説
第三次パーニーパトの戦いののち、1768年8月にダマージー・ラーオは死亡し、息子のサヤージー・ラーオ・ガーイクワードが当主位を継承した。先の戦闘は同盟の結束を緩め、諸侯の独立性を強める結果となり、ガーイクワード家は特にそれが強く表れた。 サヤージー・ラーオは権力がなく、1771年に弟のファテー・シング・ラーオ・ガーイクワードのが摂政となり、1778年には当主位を奪われた。これに対し、同年に弟のゴーヴィンド・ラーオ・ガーイクワードがファテー・シング・ラーオに反乱を起こしたが失敗し、プネーへ逃げることを強いられた。 ファテー・シング・ラーオが権力を握っていたとき、マラーター王国の宰相位をめぐって1775年以降第一次マラーター戦争が勃発していたが、ガーイクワード家はこれにかかわらなかった。そればかりか、1780年1月26日にガーイクワード家はイギリスと攻守同盟を結んだ。 1789年12月、ファテー・シング・ラーオが死亡し、弟のマナージー・ラーオ・ガーイクワードが当主位を継承したが、1793年7月に死亡したため、兄のゴーヴィンド・ラーオが当主となった。 ゴーヴィンド・ラーオの息子アーナンド・ラーオ・ガーイクワードの治世、 1802年3月15日にガーイクワード家もまた軍事保護条約カンベイ条約を結んだ。これにより、ガーイクワード家はイギリス従属化の藩王国となった(ヴァドーダラー藩王国またはバローダ藩王国)。 同年12月にマラーター同盟内の争いで敗れた王国宰相バージー・ラーオ2世がイギリスと軍事保護条約バセイン条約を結んだ。1803年8月、これに不満だったマラーター諸侯とイギリスとの間で第二次マラーター戦争が勃発したが、ガーイクワード家は中立を保った。この戦争はホールカル家のヤシュワント・ラーオ・ホールカルの功績により、1805年12月に引き分けに終わった。 1814年、グジャラートの重要都市アフマダーバードをめぐり、ガーイクワード家とバージー・ラーオ2世の宰相府との間で争いが起こった。そして、その調停はイギリスによって執り行われることとなった。 だが、1815年7月14日にガーイクワード家からプネーに派遣された使節ガンガーダル・シャーストリーを、バージー・ラーオ2世の家臣が殺害してしまう。このことから、イギリスとマラーター勢力との間で再び緊張が走り、1817年11月に第三次マラーター戦争が勃発したが、ガーイクワード家はこのときも中立を保った。 1818年6月、第三次マラーター戦争は終結し、マラーター同盟は解体したが、ガーイクワード家はヴァドーダラー藩王国として存続し続けた。
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