マラーター同盟の形成と領土拡大とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > マラーター同盟の形成と領土拡大の意味・解説 

マラーター同盟の形成と領土拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 09:13 UTC 版)

マラーター同盟」の記事における「マラーター同盟の形成と領土拡大」の解説

26年続いたデカン戦争で、マラーター王国一時衰退したものの、アウラングゼーブが死ぬと、1708年シャーフー即位した。そして、マラーター王国中心とし、王国諸侯サルダールとともに連合してマラーター同盟結成した。ただし、同盟形成されるのはもう少し後の話である。 1713年バラモンバーラージー・ヴィシュワナート宰相となって同盟率いた。彼はマラーター同盟基礎作り1719年にはマラーター諸侯連れてサイイド兄弟ファッルフシヤル打倒するのに協力した1720年バーラージー・ヴィシュワナート死亡すると、その息子であるバージー・ラーオ1世宰相となった。彼はシヴァージー再来といわれ、ムガル帝国分裂衰退乗じてデカンからインド中部北インド全体勢力伸ばし1737年には弱体化したムガル帝国首都デリー攻撃したバージー・ラーオ宰相在任期間マラーター王国デカン越えて帝国とも言えるほど広大な版図領するようになった。その一方で随行した武将であるマラーター諸侯征服地を領有させ、諸侯王国宰相忠誠貢納誓い宰相がその領土権益認める形をとった。 これにより、北インドにはシンディア家マールワーにはホールカル家グジャラートにはガーイクワード家それぞれ統治許された。のちにこの統治形態見たイギリス人は、これを「マラーター同盟」と呼んだ。ただし、宰相諸侯らの間には明確な同盟関係があったわけではなく後述する複雑な対立関係存在したとはいえバージー・ラーオ治世20年のあいだに、マラーター王権(ボーンスレー家)を名目化し王国宰相事実上「王」となり、王国宰相同盟盟主兼ねる「マラーター同盟」を確立させることに成功している。また、1731年から1732年にかけて、バージー・ラーオプネー巨大な宰相宮殿であるシャニワール・ワーダー建設しプネーに独自の勢力基盤持った。 その息子バーラージー・バージー・ラーオ在任期間1750年マラーター王国行政府サーターラーからプネー移し、完全に王国実権掌握した領土もさらに拡大しオリッサベンガルなどに侵攻し各地の王国からは貢納取り立てムガル帝国内政にも関与した。さらに、1757年にはパンジャーブ一帯制圧したマラーターインド北西部征服英語版))。そのため、一時インド全域覇者になるかと思われた。

※この「マラーター同盟の形成と領土拡大」の解説は、「マラーター同盟」の解説の一部です。
「マラーター同盟の形成と領土拡大」を含む「マラーター同盟」の記事については、「マラーター同盟」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「マラーター同盟の形成と領土拡大」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マラーター同盟の形成と領土拡大」の関連用語

マラーター同盟の形成と領土拡大のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マラーター同盟の形成と領土拡大のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマラーター同盟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS