マラーター同盟の形成と領土拡大
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「マラーター同盟」の記事における「マラーター同盟の形成と領土拡大」の解説
26年間続いたデカン戦争で、マラーター王国は一時衰退したものの、アウラングゼーブが死ぬと、1708年にシャーフーが即位した。そして、マラーター王国を中心とし、王国の諸侯(サルダール)とともに連合してマラーター同盟を結成した。ただし、同盟が形成されるのはもう少し後の話である。 1713年、バラモンのバーラージー・ヴィシュワナートが宰相となって同盟を率いた。彼はマラーター同盟の基礎を作り、1719年にはマラーター諸侯を連れてサイイド兄弟がファッルフシヤルを打倒するのに協力した。 1720年、バーラージー・ヴィシュワナートが死亡すると、その息子であるバージー・ラーオ1世が宰相となった。彼はシヴァージーの再来といわれ、ムガル帝国の分裂と衰退に乗じてデカンからインド中部、北インド全体に勢力を伸ばし、1737年には弱体化したムガル帝国の首都のデリーを攻撃した。 バージー・ラーオの宰相在任期間、マラーター王国はデカンを越えて、帝国とも言えるほど広大な版図を領するようになった。その一方で随行した武将であるマラーター諸侯に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった。 これにより、北インドにはシンディア家、マールワーにはホールカル家、グジャラートにはガーイクワード家がそれぞれ統治を許された。のちにこの統治形態を見たイギリス人は、これを「マラーター同盟」と呼んだ。ただし、宰相や諸侯らの間には明確な同盟関係があったわけではなく、後述する複雑な対立関係も存在した。 とはいえ、バージー・ラーオは治世20年のあいだに、マラーター王権(ボーンスレー家)を名目化し、王国宰相が事実上の「王」となり、王国宰相が同盟の盟主を兼ねる「マラーター同盟」を確立させることに成功している。また、1731年から1732年にかけて、バージー・ラーオはプネーに巨大な宰相の宮殿であるシャニワール・ワーダーを建設し、プネーに独自の勢力基盤を持った。 その息子バーラージー・バージー・ラーオの在任期間、1750年にマラーター王国の行政府をサーターラーからプネーに移し、完全に王国の実権を掌握した。 領土もさらに拡大し、オリッサ、ベンガルなどに侵攻し、各地の王国からは貢納を取り立て、ムガル帝国の内政にも関与した。さらに、1757年にはパンジャーブ一帯を制圧した(マラーターのインド北西部征服(英語版))。そのため、一時はインド全域の覇者になるかと思われた。
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