マラーター王国の創始とジズヤの復活
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「アウラングゼーブ」の記事における「マラーター王国の創始とジズヤの復活」の解説
アウラングゼーブはヒンドゥー教徒の弾圧を強めたことで、ヒンドゥーの復興を掲げるマラーターの指導者シヴァージーと更なる対立に陥った。シヴァージーは帰還後、両者の関係は概ね平和であったが、シヴァージーは弾圧を見てプランダル条約を事実上破棄した。 1670年1月以降、シヴァージーは帝国軍軍部の混乱を見て帝国領へと襲撃を掛け、10月にスーラトを再び略奪し、その領土を徐々に回復していった。 1674年6月、シヴァージーはヒンドゥー教の儀式に乗っ取り、マラーター王を宣しマラーター王国を創始した。こうして、デカンにはヒンドゥー教を奉じる王国が建設され、シヴァージーはアウラングゼーブの治世を通してその悩みの種であり続けた。 一方、帝国内はアウラングゼーブの宗教弾圧により宗派間で分裂状態に陥りつつあったが、1679年4月2日にアウラングゼーブはジズヤ(人頭税)の再賦課令に裁可を下し、復活した。ジズヤはアクバルの治世以来100年以上廃止されてきたが、アウラングゼーブは自身から離れつつあるムスリムの結束を強め、その熱狂的支持を得ようとする算段があったのだ、と近藤治は主張する。 さて、ジズヤはムスリム以外の異教徒に課せられる直接税であったが、富裕層、中間層、貧困層に分けて課された。アウラングゼーブの場合、ジズヤの年額は富裕層13ルピー、中間層6.5ルピー、貧困層3.5ルピーだった。ジズヤはまた逆進的な課税方式をとったため、富裕層や中間層には軽微なものであったが、貧者の負担する税額は極端に高くなり、それは当時の都市在住の未熟練の1ヶ月分の手取りに相当する額であった。とはいえ、女性、子供、老人、心身障害者、極貧者には課せられなかったため、ジズヤは徹底した調査を必要とし、課税する側にも多大な負担がかかり、その税収を目的とするよりはむしろ、イスラームの正統主義を掲げる君主がシャリーアに基づいて課すものであった。 ジズヤの復活には宮廷内で賛否が分かれ、帝国の盟友であるラージプートの有力者らからは陳情を求める形で発令を見合わせるよう上奏があった。だが、アウラングゼーブはウラマーらの建議を受け、その意見に従う形でジズヤを復活した。妥協案として、帝国軍に軍籍のある者はジズヤを免除されるという条項を付加し、これによりラージプートとの同盟は依然と同様に維持されると考えた。 デリーのヒンドゥー教徒の民衆はジズヤ復活に抗議し、デリー城の城壁にまで押し寄せたほどであった。だが、なかにはこれを機にイスラーム教に改宗するものも少なくはなく、アウラングゼーブはそうした人々に賛辞を述べた。 アウラングゼーブがジズヤを復活すると、シヴァージーも抗議の手紙を送って諌め、今ある帝国の繁栄は過去の皇帝の努力によるものだとわからせようとした。彼は「ジズヤを復活して貧しい人々を苦しめ、ティムールの名を汚した」、と厳しい批判を書き連ねている。 同年7月、マールワール王国、メーワール王国のラージプートらが帝国に対して反乱を起こした。これはジズヤの復活を契機としたものであったが、そのほかの原因には1678年12月にマールワール王国の君主ジャスワント・シングが死亡した際、後継者がなかったためにその領土を帝国の直轄領化したことがあった。アウラングゼーブはこれに対して武力を以て応じ、これらとの戦争に入った(第二次ムガル・ラージプート戦争)。
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