メーワール王国
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ナビゲーションに移動 検索に移動メーワール王国(メーワールおうこく、ヒンディー語:उदयपुर、英語:Mewar Kingdom)は、インドのラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝(8世紀 - 1947年)。ウダイプル藩王国とも呼ばれる。
歴史
8世紀、グヒラ族によってメーワール王国が建国された。
1303年、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーにより首都チットールガルを攻撃され、一時的に滅亡する[1]。だが、 1326年にハンミーラによって再興された[2]。
1535年、グジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャー率いる軍勢に首都チットールガルを包囲された。だが、このときはムガル帝国の皇帝フマーユーンの軍勢がグジャラート・スルターン朝の軍勢を破った。
メーワール王ウダイ・シング2世は皇帝アクバルへの服属を拒否したため、1567年に首都チットールガルを包囲され、翌年2月に首都は陥落した[3][4]。その後、ウダイ・シング2世は首都をウダイプルに遷都して抵抗し、その争いは息子のプラタープ・シングに引き継がれた[5][6]。
1605年にアクバルが死亡したのちも抵抗を続けていたが、1614年2月に帝国との間に講和を結んだ[7]。これにより、メーワール王国はその半独立的な地位を認められた[8]。
1679年7月、アウラングゼーブがマールワール王国の直轄地化、並びにジズヤを復活したことに抗議して、メーワール王国はマールワール王国とともに反乱を起こした[9]。
1680年1月、帝国軍に首都ウダイプル、旧都チットールガルを奪取されたが[10]、翌1681年9月に講和を結んだ。
1818年、メーワール王国はイギリスと軍事保護条約を締結し、イギリスに従属する藩王国となった(ウダイプル藩王国)。
1947年8月15日、インド・パキスタン分離独立の際、ウダイプル藩王国はインドへと併合された。
脚注
- ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.96
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.28
- ^ 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.273
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
- ^ 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.273
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.199
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.40
参考文献
- 辛島昇 『新版 世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年。
- 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳 『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。
- ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳 『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。
関連項目
- シソーディヤー氏族
メーワール王国
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ムガル帝国の第3代君主アクバル1世の時代、ラージプートの各王国に恭順するよう呼びかけていた。他の王国はムガル帝国の強大な力の前に屈し恭順を受け容れたが、ラージプート族のなかでも最も高貴なシソーディヤー氏族に属したメーワール王国だけは頑強に対抗した。メーワール王ウダイ・シング2世はムガル皇帝アクバルへの服属を拒否したため、1567年に首都チットールガルを包囲された。 メーワールのラージプートたちはアクバルを何度も死に追い詰めるほど徹底的に抗戦し、再三に渡る降伏の勧告にも屈しなかった。落城が決定的になると、8000人の死装束をまとった戦士たちが城門を開いて打って出ると同時に、城内の数千の婦女子は純潔を守るために火中に身を投じた。数次にわたる攻防で敗色濃厚となった時、また数千の兵士が出陣して討ち死にをしたという。 翌年2月に首都は陥落した。一方、落ち延びたウダイ・シング2世は、チットールガルから約115km離れた土地に新しいメーワール王国の新しい都を築いた。これが現在のウダイプルである。町の名前はウダイ・シング2世の名から付けられ、プルはヒンディー語で都市を意味することから、「ウダイの都市」という意味になる。 山に囲まれたウダイプルで、川を堰き止めて、ピチョーラー湖やファテー・サーガル湖など多くの人造湖を築いた。湖は隣の湖とつながり水量を調節するようになっている。水利の模範ともなるこの湖灌漑により、長く繁栄してきた。 1572年2月、父ウダイ・シング2世が死亡したことにより、その息子プラタープ・シングが、王位を継承した。引き続きムガル帝国に抵抗し続けた。プラタープ・シングは強大な帝国に対して、他のラージプート諸国の援助もなく戦い続けたハルディーガーティーの戦いでメーワール軍は奮戦し、一時は帝国軍を混乱に陥れた。だが、アクバル自身が率いてきた援軍が到着し、不利を悟ったプラタープ・シングはアラーヴァリー山脈地帯へ撤退、大半のメーワールの土地をムガル王朝に奪われる。しかしプラタープ・シングはチットールガルを取り戻すまでは、贅沢もせず、金銀の食器も使わず、草の上で眠り、髭の先を上に曲げることもしない」と復讐の誓いを立て、ゲリラ戦に戦法を変えてムガル軍に抵抗し、遂にチットールガルとマンダルガル以外のメーワールの土地を取り戻すことに成功する。プラタープ・シングのゲリラ戦法は、後にアフマドナガル王国の武将マリク・アンバル、そしてマラーター王国の創始者シヴァージーに受け継がれた。その後、英領下にも同藩王国の主都として存続した。メーワール王国の歴代君主たちは、ピチョーラー湖を見下ろす宮殿を中心に、調和よく歴史的建造物を建設し、「東洋のベニス」、「湖の都」などと呼ばれ、その美しさがたたえられている。ラージャスターン州南部の行政、商業の中心地である。
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