メーワール王国とは? わかりやすく解説

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メーワール王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/24 13:41 UTC 版)

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メーワール王国
Mewar Kingdom
8世紀 - 1947年
(国旗) (国章)
公用語 ヒンディー語
首都 チットールガルウダイプル
ラーナーマハーラーナー
xxxx年 - xxxx年 不明
面積
1941年33,517km²
人口
1941年6,500,000人
変遷
成立 8世紀
滅亡1947年
通貨ルピー
王宮から行進する行列

メーワール王国(メーワールおうこく、ヒンディー語:उदयपुर、英語:Mewar Kingdom)は、インドラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝(8世紀 - 1947年)。ウダイプル藩王国とも呼ばれる。

歴史

8世紀、グヒラ族によってメーワール王国が建国された。

1303年、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーにより首都チットールガルを攻撃され、一時的に滅亡する[1]。だが、 1326年にハンミーラによって再興された[2]

1535年、グジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャー率いる軍勢に首都チットールガルを包囲された。だが、このときはムガル帝国の皇帝フマーユーンの軍勢がグジャラート・スルターン朝の軍勢を破った。

メーワール王ウダイ・シング2世は皇帝アクバルへの服属を拒否したため、1567年に首都チットールガルを包囲され、翌年2月に首都は陥落した[3][4]。その後、ウダイ・シング2世は首都をウダイプルに遷都して抵抗し、その争いは息子のプラタープ・シングに引き継がれた[5][6]

1605年にアクバルが死亡したのちも抵抗を続けていたが、1614年2月に帝国との間に講和を結んだ[7]。これにより、メーワール王国はその半独立的な地位を認められた[8]

1679年7月、アウラングゼーブがマールワール王国の直轄地化、並びにジズヤを復活したことに抗議して、メーワール王国はマールワール王国とともに反乱を起こした[9]

1680年1月、帝国軍に首都ウダイプル、旧都チットールガルを奪取されたが[10]、翌1681年9月に講和を結んだ。

1818年、メーワール王国はイギリスと軍事保護条約を締結し、イギリスに従属する藩王国となった(ウダイプル藩王国)。

1947年8月15日インド・パキスタン分離独立の際、ウダイプル藩王国はインドへと併合された。

脚注

  1. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.96
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.28
  3. ^ 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.273
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
  5. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
  6. ^ 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.273
  7. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.154
  8. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.199
  9. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.
  10. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.40

参考文献

  • 辛島昇 『新版 世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年。 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳 『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳 『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目

  • シソーディヤー氏族

メーワール王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 05:52 UTC 版)

ウダイプル」の記事における「メーワール王国」の解説

ムガル帝国第3君主アクバル1世時代ラージプートの各王国恭順するよう呼びかけていた。他の王国ムガル帝国強大な力の前に屈し恭順を受け容れたが、ラージプート族なかでも最も高貴なシソーディヤー氏族属したメーワール王国だけは頑強に対抗したメーワールウダイ・シング2世ムガル皇帝アクバルへの服属拒否したため、1567年首都チットールガル包囲された。 メーワールラージプートたちはアクバル何度も死に追い詰めるほど徹底的に抗戦し再三に渡る降伏勧告にも屈しなかった。落城決定的になると、8000人の死装束まとった戦士たち城門開いて打って出る同時に城内数千婦女子純潔を守るために火中身を投じた数次にわたる攻防敗色濃厚となった時、また数千兵士出陣し討ち死にをしたという。 翌年2月首都陥落した一方落ち延びたウダイ・シング2世は、チットールガルから約115km離れた土地新しいメーワール王国の新しい都を築いた。これが現在のウダイプルである。町の名前ウダイ・シング2世の名から付けられプルヒンディー語都市意味することから、「ウダイ都市」という意味になる。 山に囲まれウダイプルで、川を堰き止めてピチョーラー湖やファテー・サーガル湖など多く人造湖築いた。湖は隣の湖とつながり水量調節するようになっている水利模範ともなるこの湖灌漑により、長く繁栄してきた。 1572年2月、父ウダイ・シング2世死亡したことにより、その息子プラタープ・シングが、王位継承した引き続きムガル帝国抵抗し続けたプラタープ・シング強大な帝国に対して、他のラージプート諸国援助もなく戦い続けたハルディーガーティーの戦いでメーワール軍は奮戦し一時帝国軍混乱に陥れた。だが、アクバル自身率いてきた援軍到着し、不利を悟ったプラタープ・シングアラーヴァリー山脈地帯撤退大半メーワール土地ムガル王朝奪われる。しかしプラタープ・シングチットールガル取り戻すまでは、贅沢もせず、金銀食器使わず草の上眠り、髭の先を上に曲げこともしない」と復讐誓い立てゲリラ戦戦法変えてムガル軍に抵抗し遂にチットールガルとマンダルガル以外のメーワール土地取り戻すことに成功するプラタープ・シングゲリラ戦法は、後にアフマドナガル王国武将マリク・アンバル、そしてマラーター王国創始者シヴァージー受け継がれた。その後英領下にも同藩王国主都として存続した。メーワール王国の歴代君主たちは、ピチョーラー湖を見下ろす宮殿中心に調和よく歴史的建造物建設し、「東洋のベニス」、「湖の都」などと呼ばれ、その美しさたたえられている。ラージャスターン州南部行政商業中心地である。

※この「メーワール王国」の解説は、「ウダイプル」の解説の一部です。
「メーワール王国」を含む「ウダイプル」の記事については、「ウダイプル」の概要を参照ください。

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