メーワール王国との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:07 UTC 版)
さて、先述したようにアクバルはほとんどのラージプートとの間に同盟関係を構築することに成功していたが、一部のラージプートは服属を拒否していた。メーワール王国とブーンディー王国である。ことにメーワール王国はラージプート諸王国の中で最も高い家柄、ラージプート諸族の宗室を自負していたため、服属させることは容易ではなかったデリー・スルターン朝時代も幾人かの王が攻撃したが、結局のところ服属させることはできなかった。 そのため、1567年10月にアクバルはメーワール王国の首都チットールガルを包囲し、これに猛攻を加えた(チットールガル包囲戦)。なお、この包囲には先に服属したアンベール王国の王子バグワント・ダースも作戦参謀として加わっていた。 数か月にわたる猛攻の末、1568年2月にチットールガルは陥落した。その際、帝国軍による大虐殺が行われ、兵士のみならず近郊の村々から戦を逃れて逃げてきた農民たちもか数多く含まれ、その数は3万人に及んだ。これはアクバルのイメージを大きく損ねる結果となり、その帰途アジメールへの巡礼を徒歩で行ったり、。同年4月、アクバルはアーグラへと帰還した。 1569年3月、今度はブーンディー王国の君主スルジャン・シングが籠城するランタンボール城を包囲し、数日砲撃を加えたのち、ブーンディー側から和解の申し入れがあった。ブーンディー王国はメーワール王国の封臣であったが、バグワーン・ダースとその息子マーン・シングは帝国に付くよう説得するためにスルジャン・シングと会見した。アクバルはこのとき彼らの従者の一人に紛れていたが、それが発見されても驚かずに交渉に加わり、講和が成立した。 だが、メーワール王国との戦いは依然として続くこととなった。メーワール王ウダイ・シング2世はチットールガルが陥落する前にすでに逃げており、彼は自身の名を冠した都市ウダイプルに遷都して帝国に対抗しようとした。 1572年にウダイ・シング2世が死ぬと、その息子プラタープ・シングが王位を継承し、ムガル帝国に抵抗した。彼はメーワール王国の領土の大半を回復したが、首都チットールガルを取り戻すことはできず、15年に死亡した。 その後、プラタープ・シングの息子アマル・シングが王位を継承して抵抗を続け、アクバル死後の1614年2月になってようやく講和が成立した。
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