ウダイ・シング2世とは? わかりやすく解説

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ウダイ・シング2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/03/06 21:24 UTC 版)

ウダイ・シング2世
Udai Singh II
メーワール王
ウダイ・シング2世
在位 1537年 - 1572年
戴冠 1540年
別号 マハーラーナー
出生 1522年8月4日
チットールガル、チットールガル城 
死去 1572年3月3日
ゴグンダ
子女 プラタープ・シング
王朝 シソーディヤー朝
父親 サングラーム・シング
宗教 ヒンドゥー教
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ウダイ・シング2世(Udai Singh II, 1522年8月4日 - 1572年3月3日)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1537年 - 1572年)。

生涯

1522年8月4日メーワール王国の君主サングラーム・シングの息子として、チットールガルで誕生した[1][2]

1534年、首都チットールガルがグジャラート・スルターン朝に包囲された際、ウダイ・シングはブーンディーに避難していた。

1537年、兄王ヴィクラマーディティヤ・シングがバンビール・シングに殺害されたことにより、王位を継承した[3][4]。とはいえ、ウダイ・シングがバンビール・シングを打倒するまでの3年後の1540年まで、戴冠式を行うことはできなかった。

1567年10月、ムガル帝国の皇帝アクバルにより、首都チットールガルが包囲された(チットールガル包囲戦)[5]。ウダイ・シング2世は帝国に服属を拒み続けており、アクバルもまたこの地を落とさなければ、ほかのラージプート諸王国に宗主権を認めさせることはできないと理解していた[6]

1568年2月、チットールガルは長い包囲戦の末に陥落し、ラージプートの戦士らは玉砕し果て、城にいた農民など大勢の人々が殺害された[7]。だが、ウダイ・シング2世は丘陵地帯に逃げており、チットール陥落後はウダイプルをメーワール王国の新都と定めた[8]

1572年3月3日、ウダイ・シング2世はゴグンダで死亡した。[9][10]。死後、息子のプラタープ・シングが王位を継承した。

脚注

  1. ^ Udaipur (Princely State)
  2. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  3. ^ Udaipur (Princely State)
  4. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  5. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.240
  6. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.240
  7. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.240
  8. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.240
  9. ^ Udaipur (Princely State)
  10. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)

参考文献

  • サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年 

関連項目




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