ガジャパティ朝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ガジャパティ朝の意味・解説 

ガジャパティ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/20 08:52 UTC 版)

ガジャパティ朝
1434年 - 1541年
公用語 オリヤー語
首都 カタック
元首等
1434年 - 1466年 カピレーンドラ
1541年 - 1541年 カハルア
変遷
建国 1434年
滅亡 1541年

ガジャパティ朝(ガジャパティちょう、英語:Gajapati dynasty)とは、15世紀前半から16世紀中ごろにかけて、東インドオリッサ地方に存在したヒンドゥー王朝1434年 - 1541年)。首都はカタック

歴史

簒奪と成立

1420年代以降、東ガンガ朝の宰相カピレーンドラ(カピレーシュヴァラ)は政治の実権を握り、1434年に東ガンガ朝を滅ぼして、ガジャパティ朝を創始した。

成立当初、ベンガル・スルターン朝シャムスッディーン・アフマド・シャーが混乱を狙い攻め込んできたが、これを撃退している。

周辺諸国との戦いと繁栄

オリッサ地方
14世紀後半頃のバフマニー朝とヴィジャヤナガル王国

創始者カピレーンドラ(在位:1434年 - 1466年)はスーリヤヴァンサのクシャトリヤを称し、前王朝の時代に衰退した王国の巻き返しを図るため、前王朝を長年苦しめた周辺諸国との戦いに臨んだ。

カピレーンドラをよく助けたのは息子のハンヴィーラで、彼は1448年アーンドラ地方レッディ王国を滅ぼし、同年にはデカンバフマニー朝のアラーウッディーン・アフマド・シャー2世と、1459年にはその息子アラー・ウッディーン・フマーユーン・ザリーム・シャーの侵攻を撃退するなど、周辺諸国とよく戦い、王国のために尽力した。

こうして、カピレーンドラの治世晩年にオリッサは繁栄を取り戻し、かつて侵略に苦しめられた周辺国にも遠征軍を送るようになり、北はベンガル王国のガンジス川流域、南はヴィジャヤナガル王国の領土へ、1464年にはカーヴェーリ川を越えてティルチラーッパッリまで進撃した。

また、ガジャパティ朝は遠征によって莫大な富を獲得し、その首都カタック1450年代には人口10万人達しており、この王国は中世インドの強国の一つとして栄えた。

内乱と反撃

ジャガンナート寺院
プルショッタマの時代に描かれたジャガンナート寺院の壁画

しかし、1466年、カピレーンドラは死の間際、武勇にすぐれ多大な功績をもつハンヴィーラではなく、政治的才能をもつ下の息子プルショッタマ(在位:1466年 - 1497年)のほうが王朝の運命を託すにふさわしいと考え、彼を後継者に指名した。

ハンヴィーラは父の決定に激怒して反乱を起こし、1472年には首都カタックを占領するなど、新王プルショッタマは窮地に立たされたが、1476年に兄を破って首都を奪い返し、その王座を確固たるものとした。

プルショッタマはその治世、プリーのジャガンナート寺院の拡張工事を行い、寺院のすばらしい壁画も彼の時代に描かれた。

プルショッタマも父王と同様に、ベンガル王国やヴィジャヤナガル王国に遠征軍を送ったが、ヴィジャヤナガル王国のほうでは、サールヴァ・ナラシンハが現れて窮地にあった王国を救ったため、遠征軍は追い払われた。

1491年、ヴィジャヤナガル王サールヴァ・ナラシンハ1世が死ぬと、その幼い息子ナラシンハ2世を擁した摂政トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカが領土の回復に努め、次第に反撃してくるようになった。

また、北のベンガル王国でも、1493年に新王朝のフサイン・シャーヒー朝が成立し、同様に反撃してきた。

こうしたなか、1500年にプルショッタマは死に、息子のプラターパルドラ(在位:1497年 - 1540年)が後を継いだ。

衰退と滅亡

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
1513年のガジャパティ朝への勝利が記されたカンナダ語の碑文(ハンピのクリシュナ寺院)

プラターパルドラは非常に信心深く、彼の王国に住んでいたヒンドゥー教ヴィシュヌ派の宗教改革家チャイタニヤを保護し、その弟子となって師事した。

しかし、1509年にヴィジャヤナガル王国で、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの息子クリシュナ・デーヴァ・ラーヤが王となると、状況はさらに悪化していった。

ヴィジャヤナガル王国は南インドの領土をすべて奪い返したのち、ガジャパティ朝の領土に遠征軍を送り、1512年には王朝の重要拠点ウダヤギリが落とされて、シンハーチャラムまで奪われるなど、王朝は南インドのみならずオリッサの領土まで喪失した。

このように、16世紀に王朝は南北からの攻撃にあい、衰運の一途をたどっていき、さらにはデカンのゴールコンダ王国の侵攻も受けるようになり、そうしたなか、1540年にプラターパルドラは死亡した。

プラターパルドラが死亡したのち、息子のカルア(在位:1540年 - 1541年)が継いだが翌1541年に死亡し、その弟のカハルラ(在位:1541年)が後を継いだものの、同年に宰相ゴーヴィンダ・ヴィディヤーダラに殺され、ガジャパティ朝は滅亡した。

ゴーヴィンダ・ヴィディヤーダラは新たにクルダー王国を創始したが、1593年にこの王国はムガル帝国に征服され、オリッサ地方はオリッサ太守ナワーブ)の管轄となった。

歴代君主

  • カピレーンドラ(Kapilendra, 在位:1434年 - 1466年)(カピレーシュヴァラ(Kapileshvara)とも呼ばれる)
  • プルショッタマ(Purushottama, 在位:1466年 - 1497年)
  • プラターパルドラ(Prataparudra, 在位:1497年 - 1540年)
  • カルア(Kalua, 在位:1540年 - 1541年)
  • カハルア(Kakharua, 在位:1541年)

参考文献

外部リンク

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ガジャパティ朝」の関連用語

ガジャパティ朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ガジャパティ朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのガジャパティ朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS