ガジャパティ朝との戦い
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「クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ」の記事における「ガジャパティ朝との戦い」の解説
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはそののち、サールヴァ・ナラシンハの治世にオリッサのガジャパティ朝に奪われたウダヤギリの奪還を計画した。ヴィジャヤナガル王国とガジャパティ朝との戦いはじつに数十年に及ぶものであり、父トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの時からは膠着していたが、その決着の時が迫りつつあった。 1512年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはウダヤギリを攻め落とすために、自ら歩兵3万4000と騎兵400を以て進軍した。兵数の少なさの理由は、ウダヤギリは非常に堅固な城塞でありその道程には狭い道が一本しかなく、兵糧攻めにするほか方策がなかったからであった。彼は城への狭い一本道の道幅を広くしのみならず、ほかにも道を作って軍勢を通しやすくし、ウダヤギリ城を包囲した。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは1年半も及ぶ長期にわたる包囲の末、敵を兵糧攻めで疲弊させ、1513年にウダヤギリを陥落させることに成功した。その包囲戦により、彼はオリッサ王の叔母(あるいは叔父)を捕え、ウダヤギリから一緒に連れて帰り、1514年にヴィジャヤナガルへと帰還した。 しかし、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこれだけでは満足していなかった。まもなく、宰相サールヴァ・ティンマラサを呼び出し、次の遠征に出る旨を伝え、食糧を準備してし兵士に十分な給料を支払うように伝えた。 1515年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはガジャパティ朝の主要都市であったコンダヴィードゥを攻めた。オリッサ王プラターパルドラはこの包囲を知ると、自ら象軍1300、騎兵2万、歩兵50万を率いて迎撃にやって来た。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこれを知ると「この市を攻めるよりも、王その人及びその軍隊と戦いたい。死はその後でゆっくり攻撃することが出来よう」、とコンダヴィードゥの包囲を解いて町を後にした。このとき、彼はコンダヴィードゥの住人が市を出て背後から襲わないよう、一部の軍隊を残したままにした。 そして、町から4グレア(距離の単位)前進したクリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、浅瀬をつたってわたることのできる大きな川であったクリシュナ川に到達し、すでに対岸に布陣していたオリッサの軍勢と遭遇した。同様に対岸に布陣した彼はオリッサ王に対し、 “ 「もし貴殿が世と戦う意思があるならば、自由に川を渡れるように2グレア後退する。しかし、貴殿がもし渡らない時は余が代わって川を渡り、攻撃を仕掛ける」 ” 、との旨を伝えた。 これに対しオリッサ王からの返答はなかったが、戦いを仕掛けようと準備し始めたため、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはそれがオリッサ王の決意と考え、全軍を対岸に布陣するオリッサの軍に向けた。双方の軍勢は川を渡る最中に全面衝突し、両軍に大勢の死者が出た。だが、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは川を渡り、川岸で勇敢に戦ったため、オリッサ軍は負けて敗走した。このとき、ヴィジャヤナガル軍はオリッサ川から多数の馬と象を奪うことに成功した。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは宰相サールヴァ・ティンマラサに「余の武力のほどをまだ経験していないあの要塞(コンダヴィードゥ城)に引き返そう」といい、コンダヴィードゥへと向かった。2ヶ月の渡る包囲の末、同年6月23日にコンダヴィードゥは陥落した。 その後、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはオリッサ王の追撃に戻り、その国土の多くを攻略し、破壊した。その際、王国の主要都市たるコンダパッリを3ヶ月にわたる包囲の末、人海戦術で攻略した。この都市にはオリッサ側の多くの王族と貴族がおり、そのうちオリッサ王の妻、第一王子、主要な王国の長官のうち7人はヴィジャヤナガルへと送らせた。 こうして、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはオリッサ王国の領土を100グレアに進撃し、ゴーダーヴァリ川を越え、1516年までに北東のシンハーチャラムまで平定したのち、最終的にラージャムンドリーに6ヶ月に滞在した。この間、オリッサ王に戦場でまみえるように伝えたが返答なく、彼は滞在中に町に立派な寺院を建設し、多数の所領(レンダ)を与え、碑文を刻み込んだ。その内容は、 “ 「これらの文字が消えるころ、ようやくオリッサ王はヴィジャヤナガル王に戦いを挑むであろう。(消える前に)オリッサ王が自らこれらの文字を消すことがあれば、その時には王の奥方はヴィジャヤナガルの馬丁たちの嬲り者にされるであろう」 ” 、というものであった。 その後、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはオリッサ王国から奪った領土の大半を寺院に寄進し、ヴィジャヤナガルへと帰還した。そののち、彼は捕虜にしていたオリッサの王子に剣術の試合を所望したが、自身ではなく家来を相手させため、王子はこれを侮辱とみて自殺した。 この知らせはオリッサ王のもとにも届き、彼はここに来てようやく和睦への道を考えるようになった。オリッサ王は宰相サールヴァ・ティンマラサに「王子が死んだ今、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの手中にあるわが妻にはいかなる方法があるか?」との旨を送った。これに対し、サールヴァ・ティンマラサは「ご息女とクリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王との結婚をお申し出なさい。そうすれば、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王はあなた様の奥方様も土地も返すでしょう」と返答した。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこれを大いに喜び、オリッサ王の娘トゥッカが婚姻のためにヴィジャヤナガル王国に到着すると、オリッサ王と友好関係に入り、オリッサ側の捕虜とトゥンガバドラー川以北の土地を返還した。かくして、ヴィジャヤナガル王国とガジャパティ朝との戦いはここに終結した。
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