ビジャープル王国との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/18 14:37 UTC 版)
「クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ」の記事における「ビジャープル王国との戦い」の解説
ガジャパティ朝との戦いが終結したのち、同1516年にはゴールコンダ王国との戦争が行われたが、1519年から1520年までビジャープル王国との直接対決に突入した。当時西海岸にはポルトガル勢力が進出してきていたが、これに対してマラバール海岸への進出を黙認するかわりに、ビジャープル王国からライチュール地方を取り戻すための協力と、アラビアからの馬の補給を確保していた。 両国の係争地であるライチュール地方とその主要都市ライチュールは、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの父であるトゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカはその奪還を試みようと奔走したが、和平が結ばれるところとなった。クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは先王の代から続く和平をいかなる方法で破ってよいかわからなかった。 和平の条件の一つとしては「地主や地方長官あるいはその他悪人たちの誰かが反乱を起こした際、彼らが互いの土地に身を寄せた場合、双方は相手から要求されればその身柄を直ちに引き渡す」というものであった。サールヴァ・ティンマラサはすでにビジャープル王国がこれを破っているということを理由に和平を破棄することを進言したが、多くの廷臣らがこれに反対した。 1519年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤが馬の買い付けにゴアに行かせていたイスラーム教徒の男が4万パルダウ(通貨の単位)を全額着服し、ゴア付近のビジャープル領の村へと逃げ込む事件が発生した。ビジャープル王イスマーイール・アーディル・シャーは顧問の側近や法官などを招集し、この男がイスラーム法に通じておりムハンマド(サイイド)の子孫であることを理由に、ヴィジャヤナガル王国への送還を拒否することにした。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこの返答にひどく落胆したのち、和平協定は破られたと判断し、顧問の高官らを招集した。そして、ビジャープル側からの返信を読ませ、それが読み終えられたと同時に彼は、「もはや議論はやめて、全員準備せよ。余は報復する」といった。顧問らは当初は反対したが、王の強い決意を知ると反論をやめ、ライチュールへと進撃するように進言した。 まもなく、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは戦闘の準備を始めると同時に、バフマニー朝、ゴールコンダ王国、ベラール王国、アフマドナガル王国へとそれぞれ書簡を書き、ビジャープル王国と戦闘に至る経緯を伝えた。彼らはビジャープル王国を恐れて警戒していたため、「結構なことです。可能な限り援助しましょう」と返答した。クリシュナ・デーヴァ・ラーヤのこの行動は、彼らの軍勢はあてにしていなかったものの、ビジャープル側に回ることを恐れてのことであった。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはこれほどに念を押したのち、自身の崇める偶像に供物を捧げたのち、歩兵と騎兵、象軍のすべてを以て進軍した。そして、ライチュールを長期にわたり包囲したのち、救援に駆け付けたビジャープル王の軍勢に激戦の末に勝利し、敵軍を敗走させた(ライチュールの戦い)。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはライチュールに入城し、ビジャープルと講和が成立したのち帰還した。ヴィジャヤナガル王国は講和により、ライチュールとその地方一帯を支配するところとなった。このように、彼は即位してから1520年までの10年間に目覚しい戦果を上げ、王国の版図は拡大され、かつてないほど広大なものとなった。
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