ビジャープルの侵攻と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/18 14:37 UTC 版)
「クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ」の記事における「ビジャープルの侵攻と死」の解説
1529年、勢力を立て直したビジャープル王国がこの混乱に乗じて、ヴィジャヤナガル領へと進撃し、ライチュール地方を奪取した。クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはライチュール地方へと全速力で進み、軍を率いていたビジャープル王は彼が来ると知るとライチュールから逃げた。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはビジャープル王に対し、 “ 「あなた(ビジャープル王)は自分で誓った約束をすでに2回も破り、余と決めてあったことを果たさなかった。それゆえ余は戦いを挑み、力づくであなたを挑み、力ずくであなたを余の臣下となす。余はあなたからベルガウムを奪取しないうちはどこまでも追って行く」 ” 、との旨を伝えた。 だが、雨期(モンスーン)が始まっていたため、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはそれ以上進軍することができず、首都ヴィジャヤナガルへと帰還した。帰還したのち、彼は火砲の準備を整えたばかりか、ゴアのポルトガル勢力に対して援助を要請する使節を派遣し、「ベルガウムを奪取すれば、ゴア本土は総督に与えよう」とまで伝えた。これはゴアの本土をベルガウムの長官が支配していたためである。 しかし、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは戦いの準備のさなか、病に斃れて死亡した。フェルナン・ヌーネスによると、その病は鼠蹊部と睾丸の病で、(殺害された王を除いて)ヴィジャヤナガルの王らは全員がこれで死んだのだという。
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