分裂と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/03/25 23:55 UTC 版)
だが、1386年にアナヴェーマ・レッディが死に、息子のクマーラギリ・レッディ(在位1386 - 1402)が継ぐと、王国は王位をめぐって内戦に陥り、コンダヴィードゥとラージャムンドリーに王が併立することとなった。 そのため、ヴィジャヤナガル王ハリハラ2世はこの機を逃さず、アーンドラ地方への遠征を行い、ヴィヌコンダなど都市を落とし、この地方の大部分を併合した。 その後、2つのレッディ王国はアーンドラ地方に存続したが、ヴィジャヤナガル王国の圧迫を受け、1422年にはゴンダヴィードゥを落とされ、ゴンダヴィードゥ・レッディ王国は滅亡した。 とはいえ、ラージャムンドリ・レッディ王国のヴィーラバドラ・レッディ(在位1423 - 1446)の治世にはまだ、オリッサへと出兵する余裕もあった。 だが、1434年にオリッサで東ガンガ朝がガジャパティ朝にとって代わると、その状況も終わりをつげ、今度は逆にレッディ王国が攻められてしまう。 そのため、レッディ王国はガジャパティ朝に対抗するため、ヴィジャヤナガル王デーヴァ・ラーヤ2世と同盟することにし、その軍が首都ラージャムンドリーに常駐することとなった。 これにより、レッディ王国とヴィジャヤナガル王国の連合軍はガジャパティ朝を破ったが、1446年にデーヴァ・ラーヤ2世が死ぬと、その息子のデーヴァ・ラーヤ3世は同盟を破棄し、ラージャムンドリーから軍を撤退させた。 そのようななか、1448年にヴィーラバドラ・レッディは死亡し、ガジャパティ朝はこの機を逃さずにラージャムンドリーを落とし、レッディ王国を滅亡させた。
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