分裂と爆弾闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:19 UTC 版)
「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」の記事における「分裂と爆弾闘争」の解説
労対派との分裂によって弱体化した狭間派は他党派との共闘を目指すこととなった。もともと解放派のなかには、1971年6月の全国全共闘の分裂の際に、中核派ならびに第四インター統一書記局派と激しく対立したという歴史ゆえに、中核派と第四インターに対する反発がその後も根強く残っていたが、労対派が第四インター統一書記局派などに政治的に接近したことに対抗して、中核派やブント戦旗(西田)派、蜂起派に接近することを試みることとなった。この結果、成田闘争では、中核派とともに反対同盟北原派を支持することとなり、10.20成田現地闘争でも中核派と共同で成田空港への襲撃を行っている。 その後、狭間、永井が出獄するが、武闘派の狭間と大衆運動を重視する穏健派の永井の間で対立が発生。1987年(昭和62年)に北原派の農民の一部が中核派の引き回しに反発して、小川派を結成すると、中核派に同調した最高指導者・狭間嘉明を中心とする狭間グループと、小川派に同情的なNO.2の総務委員・永井啓之を中心とする永井グループの対立が深まるが、永井が自分も被告の一員となっていた1973年(昭和48年)9月の革マル派による神奈川大学夜襲の際に、革マル派の金築・清水が捕まって死亡した事件の公判で、北条秀輝の名を言ったことが「権力への売り渡し」として指導部内で非難され、1988年(昭和63年)1月に永井啓之は除名される。 だが、その後も永井の影響力は組織内で残り、永井自身も個別オルグをして抵抗した。1989年(平成元年)2月5日の元軍事指導部の辻美喜の死をめぐって、革マル派は「辻は永井グループだからリンチ殺害された」と機関紙で宣伝、警察は「自己批判をせまられ、発作的に飛び降り自殺した」と発表した。狭間派は機関紙で辻の追悼文を発表して警察と革マル派に反論した。1989年(平成元年)6月25日にはついに永井啓之が埼玉県川口市の自宅から拉致され、同日茨城県牛久市の県道トンネル内で放置されたビニールシートにくるまれた寝袋の中に遺体で発見された(革労協元幹部内ゲバ殺人事件)。解放派の歴史上初の同志殺しである。この事件で狭間派は機関紙で永井を除名した事実と、拉致したことを認める声明文を発表し、「死という結果は目的としてはなかった」としつつも、「今回の事態の全責任は永井にある」という、連合赤軍ですらやらなかった「同志殺しの居直り」を行なった。 そして11月7日の、北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家の青田君子が、包丁で腹を切って自殺した件が『週刊新潮』や革マル派によって「彼女は永井グループで、今回の同志殺しに絶望して自殺した」と宣伝されることとなった。この後、樋口圭之助らの旧永井派は革労協から集団脱走した。 1989年(昭和64年)の昭和天皇崩御をきっかけに、革労協は「90年天皇決戦」と称して17件のテロ・ゲリラ事件を引き起こした。革労協は「卑劣、悪質、凶悪な手段で一切容赦を与えず無慈悲に敵権力をせん滅する」との宣言をし、1990年(平成2年)11月1日に警視庁独身寮爆破事件で警察官1人を殺害し、8人に重軽傷を負わせる。事件の代償は大きなもので、警察は革労協に対して「ありとあらゆる法令を駆使」した徹底的な壊滅作戦を敢行、組織は大量検挙により弱体化した。1991年(平成3年)には関西の全逓組合員らが西原学を中心に西原グループとして分裂した。1996年(平成8年)には神奈川のグループが集団脱走し、狭間派の内部崩壊はエスカレートしていく一方だった。
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