分裂の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:45 UTC 版)
ルケリヤの死後、後継者をめぐりドゥホボール派社会は分裂した。多数派は彼女の指名したピョートル・ヴァシーリエヴィチ(P・V)・ヴェリギンを支持したが、少数派はルケリヤの兄弟ミハイル・グバノフと長老アレクセイ・ズプコフを支持した。ところが少数派は長老や州当局の支持を取り付けていた。1887年1月、多数派による指導者選出の場に警察が踏み込み、ヴェリギンを逮捕した。彼と支持者たちはその後16年間ロシアにより流刑にされたが、多数派は彼を指導者として仰ぎ続けた。政府はドゥホボール派に法律遵守と忠誠を強制し、さらにザカフカジエにも兵役を実施した。少数派は政府の方針に従ったが、多数派の中には伝統の非暴力主義を棄てて抵抗する動きも出た。 このような中で1895年、ドゥホボール派信徒たちは暴発を防ぐために自分達の武器をすべて破壊することにしたが、武器を集めたところで政府の指示を受けたコサックに襲われた。コサックはさらに多数派の村々を襲い、4千人以上が住家を失い、多くの人々が餓死するに至った。
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