分裂(第2次)と解党
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1937年(昭和12年)、鈴木の総裁辞任後、鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄・中島知久平の4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となったが、1939年(昭和14年)4月30日中島は一方的に「政友会革新同盟」を結成してその総裁となった。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、中島の革新同盟総裁就任2日前に新たに久原房之助・三土忠造・芳澤謙吉の3名を政友会の総裁代行委員に任命した。ここに政友会は、 正統派 - 久原派とも(鳩山・久原・三土・芳澤・肥田琢司らが中心) 革新派 - 中島派とも、正式名称は政友会革新同盟(中島・前田・島田・田邊七六・東郷実らが中心) の2派に分裂した。この分裂を、大正末期の政友本党結党にともなう分裂(第一次分裂)との対比で、第二次分裂と呼ぶこともある。 正統派は5月20日臨時党大会を開き、鈴木前総裁の指名という形式で久原を総裁とすることを決定、一方の革新派は旧昭和会の望月圭介・山崎達之輔ら政友会出身者を合流させた。またこの分裂の際に、正統派・革新派のどちらにも与しなかった金光庸夫・犬養健・太田正孝らは中立派を結成、翌1940年(昭和15年)には折からの斎藤隆夫除名問題で斎藤除名を支持して正統派内で孤立した議員がこの中立派に合流し、以後は「統一派」を名乗った。 中立派 - 金光派とも(金光・犬養・太田らが中心)→ 統一派に発展 第二次分裂時、党機関紙『政友』や党史の編集部門は革新派に握られていた。そのため解党後の1943年(昭和18年)に完成した『立憲政友会史』では、中島を正式な政友会第8代総裁としている。一方正統派は新たに党機関誌『立憲政友』を発行、久原を正統な政友会第8代総裁としてこれに対抗した。 しかし同年7月16日には66名を擁する正統派と10名を擁する統一派が解党、7月30日には97名を擁する革新派も解党して大政翼賛会に合流、ここに伊藤博文の結党から40年の歴史を持つ政友会は名実共に消滅するに至った。
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