分裂と解党とは? わかりやすく解説

分裂(第2次)と解党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 02:04 UTC 版)

立憲政友会」の記事における「分裂第2次)と解党」の解説

1937年昭和12年)、鈴木総裁辞任後鳩山一郎前田米蔵島田俊雄中島知久平の4名が総裁代行委員務め集団指導体制となったが、1939年昭和14年4月30日中島一方的に政友会革新同盟」を結成してその総裁となった一方中島総裁反対する鳩山らは病床鈴木総裁動かし中島革新同盟総裁就任2日前に新たに久原房之助三土忠造芳澤謙吉の3名を政友会総裁代行委員任命した。ここに政友会は、 正統派 - 久原派とも(鳩山久原三土芳澤肥田琢司らが中心革新派 - 中島派とも、正式名称政友会革新同盟中島前田島田田邊七六東郷実らが中心) の2派に分裂したこの分裂を、大正末期政友本党結党にともなう分裂第一次分裂)との対比で、第二次分裂と呼ぶこともある。 正統派5月20日臨時党大会開き鈴木総裁指名という形式久原総裁とすることを決定一方革新派は旧昭和会望月圭介山崎達之輔政友会出身者合流させた。またこの分裂の際に、正統派革新派のどちらにも与しなかった金光庸夫犬養健太田正孝らは中立派結成、翌1940年昭和15年)には折から斎藤隆夫除名問題斎藤除名支持して正統派内で孤立した議員この中立派に合流し以後は「統一派」を名乗った中立派 - 金光派とも(金光犬養太田らが中心)→ 統一派に発展 第二次分裂時、党機関紙政友』や党史編集部門は革新派握られていた。そのため解党後1943年昭和18年)に完成した立憲政友会史』では、中島正式な政友会第8代総裁としている。一方正統派新たに機関誌立憲政友』を発行久原正統政友会第8代総裁としてこれに対抗した。 しかし同年7月16日には66名を擁する正統派10名を擁する統一派が解党7月30日には97名を擁する革新派解党して大政翼賛会合流、ここに伊藤博文結党から40年歴史を持つ政友会名実共に消滅する至った

※この「分裂(第2次)と解党」の解説は、「立憲政友会」の解説の一部です。
「分裂(第2次)と解党」を含む「立憲政友会」の記事については、「立憲政友会」の概要を参照ください。

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