分裂と新生鬼太鼓座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:28 UTC 版)
ボストンマラソン完走後、そのまま舞台に上がり三尺八寸の大太鼓演奏でデビューをかざった鬼太鼓座はボストンの地元マスコミに大きく取り上げられ、以降、日本国内外の公演も順調に進んでいったが、その後リーダーの田耕とメンバーとの間で意見やポリシーの相違が次第に表面化した。 そして、その亀裂が決定的になったのは、映画『ざ・鬼太鼓座』の制作である。田耕は当時の鬼太鼓座を記録に残したいと映画制作を発案、自ら資金を調達しほぼ独断で企画を進め、松竹、朝日放送の協力を取り付け、3年の歳月をかけて映画を完成させる。しかし、実際に完成した映画は田耕の構想していた物とは全く異なった物であり、映画の内容を巡って、田耕は制作サイドと激しく対立し、結果的にこの映画はお蔵入りとなる(以降上映会などでの上映を除いて一般公開はされず、ソフト化もされてこなかったが、2017年1月、加藤泰監督生誕100年企画として再上映され、翌月ソフトが販売された)。 1981年、田耕は「鬼太鼓座」メンバーと別れ、一人佐渡をあとにした。その際に田耕は「鬼太鼓座(おんでこざ)」の商標権、太鼓道具等を引き上げたが、メンバーたちはその時すでに決まっていた舞台スケジュールをとりあえず「鬼太鼓座」名義でこなすことになる。しかし、田耕が新しい鬼太鼓座で活動を始めたため、旧メンバーらは1981年に自らの名称を「鼓童」とし、新たに楽器購入にあたり地元地銀から融資を得て、「鼓童」として日本国内外での数多い公演をこなし現在に至る。 佐渡をあとにした田耕は、新しいメンバーを集めて、自らが所有していた「鬼太鼓座(おんでこざ)」の商標権と、和太鼓などの楽器を用い、長崎を拠点に事実上の「第二期鬼太鼓座」を組織。今福優をはじめとする一流の太鼓プレイヤーが次々に誕生する。2000年より富士山の麓静岡県富士市の合宿場を拠点として富士山の麓、静岡県富士市宮島に移転、「富士の山 鬼太鼓座」となる。田耕は、2001年4月に交通事故で他界したが、その後は松田惺山が音頭取となり、代表取締役の細川和子の私財を投じて「第四期鬼太鼓座」となる。 「第五期鬼太鼓座」では、2006年にクロアチア・イタリア・スイス・ドイツにてヨーロッパツアー、2008年にはバルカン半島・イタリアを巡る。2008年の国立劇場での40周年特別公演を皮切りに「鬼魂一打(きこんいちだ)」特別ライブツアーを展開。2009年11月の「天皇陛下御即位20年をお祝いする国民祭典」、 同月末ポルノグラフィティ東京ドームライブに出演する。 「第六期鬼太鼓座」では、2012年3月に、東日本大震災一年を機にアメリカ・フランス・中国等にて東北の芸能と共に世界一周公演を行う。同年4月からは富士合宿所に加え埼玉県東秩父村にて合宿生活を行っている。
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