分裂と合同とは? わかりやすく解説

分裂(第1次)と合同

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 02:04 UTC 版)

立憲政友会」の記事における「分裂第1次)と合同」の解説

総裁のもとでは表面化しなかった内部対立後継高橋是清総裁時代になると顕在化ていった対立の構図は、官僚メンバー中橋徳五郎元田肇など)と自由党メンバー横田千之助望月圭介など)の争いであった。また普通選挙求め立憲労働党期成同盟会、青年改造連盟小石川労働会、博文館大進会の活動も活発であり、1920年2月12日には政友会門前などで5万人を動員した集会開催されたこともあった。 第45回帝国議会後に内閣改造企画した高橋首相は、1921年大正10年5月2日閣議内閣改造提案するも、元田相・中文相反対にあい、更に翌日閣議では山本農相反対に回ったため一度断念した。続く、6月5日には政友会議員総会総裁一任決議し閣僚に辞表求めた山本農相・床次内相野田逓相辞表提出同意したが、元田相・中文相内閣改造あくまでも反対したため高橋内閣総辞職することとなった高橋横田内閣改造派は、非改造派の元田・中木下・吉植・田辺・田の6人を除名した除名者が復党したのは半年後の12月のことであった高橋後に組閣したのは加藤友三郎であった政友会衆議院第一党であるにも関わらず政権失ったことについて党を主導した横田への批判高まり1922年大正11年9月3日付けの『神戸新聞』には「政友本党」の名で新党設立動きがあることが報道された。加藤内閣の後も第2次山本内閣続き政友会には政権回ってこなかった。このため1923年大正12年12月からの第47回帝国議会臨時会)で政友会内に改革運動として再度紛糾起き改革派山本元田・中総務委員に加わることで妥協見た山本後の内閣についても選挙管理内閣の意味合いもあって枢密院議長清浦奎吾首班とする清浦内閣成立し政友会衆議院第一党のまま都合三度政権逃した清浦1924年大正13年1月1日大命拝受し2日から組閣入り貴族院最大会派研究会協力要請した当初政友会では衆議院議席背景に床次と横田通じて数名閣僚要求することで清浦組閣断念することに期待した清浦内閣組閣難航する中、政友会改革派高橋引退させ、研究会とともに清浦内閣協力し、床次を政友会総裁にして副総理格で入閣させることを企画した折しも当時高橋総裁辞任する決心一度漏らしていたが、小泉策太郎説得翻意して清浦内閣には野党立場をとることを決めた。この高橋総裁続投結果政友会の分裂もたらすこととなった当初横田や小泉脱党者を少数見積もっており、衆議院第一党確保され、むしろ結束固め良い機会だと見込み立てていた。横田予測では脱党者は20人から30人多くて50人と推測していた。政友会幹部中には脱党者を100人前後と予測していた者もおり、例え松野鶴平脱党130人前後、残留組110人、去就不明37人を予測したまた、小泉脱党130人、残留組150程度であり、原前総裁後継党であるという正当性もあるため、来たる選挙では160~180議席獲得して比較第一党維持可能と考えた15日には清浦内閣反対決定し高橋総裁爵位を子に譲り平民となって総選挙出馬することを宣言した。これを受け、政友会改革派分裂決心し政友本党結成して清浦内閣与党構成した。床次は最後まで迷っており、16日午後岡崎邦輔説得によって一時政友会踏みとどまって高橋進退共にすることを誓い脱党組を説得しようとしたが逆に再度説得をうけて脱党することとなった16日夜、改革派山本元田・中橋・床次は脱党届を高橋総裁提出し結局過半数上の148人が政友会から分裂して政友本党結成することとなった29日帝国ホテル政友本党結成が行われた。第48回帝国議会開始時に第一党政友本党150議席)であり、少数となった第二党政友会139議席)は18日三浦梧楼宅で憲政会103議席)・革新倶楽部43議席)と会談し護憲三派形成して倒閣運動開始した清浦内閣では選挙権拡大について選挙法改正取り組んだが、独立生計を持つものについて大正17年1928年実際に大正天皇崩御により昭和3年5月からの施行目指したものであった。これが野党攻撃の的となり、1924年大正13年1月31日内閣不信任案提出され議場極度混乱もたらしたため、政府衆議院の解散行った一般的に護憲三派普通選挙推進していたとされるが、個別見れば政友会では従前経緯もあって普通選挙推進していなかったし、逆に与党政友本党では普通選挙スローガンとしていた。 関東大震災影響選挙人名簿整備遅れたため総選挙解散から100日後の5月10日投票が行われた。総選挙では与党政友本党114議席第二党)および護憲三派のうち政友会101議席第三党)と革新倶楽部30議席第四党)がともに議席減らし憲政会153議席第一党)が躍進した。政友本党では総務中橋徳五郎落選をした。政友会では選挙によって第一党となるか、または革新倶楽部合同することで第一党狙っていたが当て外れ高橋総裁責任問題であった後継者難によって総裁続投された。この間に、政友本党の床次総裁5月23日密かに松本剛吉会談行い80人を率いて政友会復帰果たしたいので横田千之助への交渉依頼した松本西園寺公望相談のうえ、極秘裏のまま留保することとした。このため床次派の政友会復帰流れ逆に反床次派による政友会復帰運動起こった5月25日西園寺公望会談した清浦首相総選挙結果受けて議会運営難しくなったため総辞職申し出たが、西園寺助言選挙結果=政権交代前例となるのを避けるために内閣不信任案提出されてからの総辞職をすることとなり、辞職6月7日となったこの間政友会では小泉策太郎政友会革新倶楽部政友本党連合させる憲政会運動画策し、また清浦内閣側でも大木遠吉政友会政友本党多数派合同による居座り工作なされたいずれも成功しなかった。9日西園寺衆議院第一党憲政会党首加藤高明首相に奏した加藤最終的に護憲三派内閣構成したが、組閣時に政友会ポスト要求拒むために政友本党との連立ほのめかした政友会では党務処理していた横田千之助司法大臣就いたため、野田卯太郎新設副総裁とした。総選挙敗れた政友本党では、今まで設置していなかった党首ポスト設け当初山本達雄推戴しようとした山本固辞したため、床次竹二郎総裁収まった護憲三派による加藤高明内閣成立して間もない1924年大正13年8月には政友会岡崎邦輔たちは加藤内閣根本的な財政整理できない場合にはより一層強力な内閣が必要であり、政友会政友本党合同させて陸軍大将田中義一総裁とすることを企画した。この計画秋に合同あり得るとの話であったが、高橋総裁反対にあって頓挫した1924年大正14年)、第50回帝国議会では加藤高明内閣により普通選挙案が提出されると、政友会への復帰図られたが政本合運動破綻し復帰派による五月雨式脱党起き12月29日には鳩山一郎中橋徳五郎など22名が政友会合流した1926年大正15年1月20日政友本党党大会では顧問川原茂輔などの引き締めもありなお、80人以上を擁してキャスティングボートを握る第三党路線堅持した。8月護憲三派連立崩れて憲政会単独内閣いわゆる第2次加藤高明内閣)が成立した後は、政友本党衆議院におけるキャスティング・ボートを握る展開となる。当初政友会との合同機運高まり(政本合問題)、田中政友会総裁と床次政友本党総裁会談により提携申合せ書が作成されたが、床次は合同には消極的であり、12月の第51帝国議会では衆議院常任委員長ポスト割り振りめぐって交渉決裂したこうした動きの中で12月29日中橋徳五郎鳩山一郎ほか合同促進22名が脱党し翌年2月にその多く政友会復党した。1927年昭和2年2月25日には憲政会政友本党連合いわゆる、憲本提携)が成立し立憲民政党政権取ったが、政友会切り崩し行い杉田定一元田肇川原茂輔など30名を脱党させ政友会合流させた。昭和金融恐慌がおき、第1次若槻内閣総辞職すると、代わって立憲政友会総裁田中義一内閣組閣した。田中総裁の頃から、在郷軍人会田中影響政友会支持団体に加わるなど「政友会の親軍化」がいわれるうになる

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