逓信省
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逓信省(ていしんしょう、旧字体:遞信省、英語: Ministry of Communications[2])は、かつて日本に存在した郵便、通信、運輸を管轄する中央官庁である。
注釈
出典
- ^ 『事典 昭和戦前期の日本』(吉川弘文館) 134頁。
- ^ “Reguratios governing the Organization of the Ministry of Communications”. OFFICIAL GAZETTE (大蔵省印刷局) (No. 74): 1. (1946-7-1).
- ^ a b 内閣『太政官達第七十号』国立公文書館デジタルアーカイブ、1885年12月22日 。
- ^ 大蔵省、企画院など十官庁焼く(昭和15年6月21日 東京朝日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p79 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 重要書類は搬出、事務には支障なし(昭和15年6月21日 東京日日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p80
- ^ 逓信省官制(昭和21年勅令第343号)第1条。
- ^ 『官報』第7071号、明治40年1月26日。
- ^ 国立印刷局庁舎及び工場等の図面・写真 - 国立印刷局ホームページ。
- ^ 第三伏見丸
- ^ 浦上丸
- ^ Peacetime_E_Type_Standard_Cargo_Ship(英語)
- ^ 逓信省官制中改正ノ件(明治42年勅令第194号)。
- ^ 電力管理準備局官制(昭和13年勅令第320号)。
- ^ 電気廳官制(昭和14年勅令第153号)。
- ^ 行政簡素化實施ノ爲ニスル遞信省官制中改正ノ件(昭和17年勅令第754号)。
- ^ 軍需省官制(昭和18年勅令第824号)。
- ^ 商工省官制(昭和20年勅令第486号)。
- ^ “電気製品安全の歴史”. 電気製品認証協議会. 2021年10月15日閲覧。
- ^ 航空局官制中改正ノ件(大正12年勅令第123号)による改正後の航空局官制(大正9年勅令第224号)。
- ^ 逓信省官制中改正ノ件(大正13年勅令第267号)。
- ^ “日本の空港整備はどのように始まったのか?”. 軍事板常見問題&良レス回収機構. 2009年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月12日閲覧。
- ^ 航空局官制(昭和13年勅令第56号)。
- ^ 昭和20年勅令第734号(逓信院官制中改正等ノ件)。
- ^ “逓信院”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年3月17日閲覧。
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第5700号、大蔵省印刷局、1946年1月16日、87頁。
- ^ 昭和21年逓信省告示第5号。
逓相
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昭和金融恐慌発生に端を発して第1次若槻内閣が倒れた際に、郷里から選挙区の人たちが東京の望月の家にやってきて、次は立憲政友会内閣になるから今度こそは大臣になってくれ何のために応援しているのかわからん、と頼みこんだ。望月は相変わらずやる気はなかった。ちょうどその時に田中義一から大臣要請の電話があり一考すると答え電話を切ると選挙区の人たちが、ぜひ受けろ望月はいいかもしれないが自分たちが困る、と騒いだ。これに取材に来ていた新聞社も決まったものとして騒いだ。望月は喧騒を離れ自室にこもり「自分自身だけでは生きて行けぬ世の中じゃな」と一考していると、再び田中から電話があり大臣承諾の返事をした。これに喜んだ人たちで望月家は大騒ぎとなった。望月が60歳の時のことである。 1927年(昭和2年)4月20日 付で田中義一内閣での逓信大臣に就任した。望月は逓信官僚に対して「私は何も知らない。君ら、最も良いと確信するところをやってくれ」とほぼまかせていた。一方で閣議決定した郵税(郵便料金)増税などの逓信省担当分の変更は「閣議でこうすると約束したものだからこの通りにしてくれ」と反対する官僚を説き伏せた。人を使うのがうまく要所は押さえていたこと、そして望月も勉強したことからうまく回っていた。実績としてはいくつかあるが特に航空関連のものが出色で、(旧)航空法の施行、国際航路含めた定期航路の保護奨励、国策会社日本航空輸送の設立推進、を行っている。現役国務大臣で初めて飛行機に乗ったのが望月であり、羽田飛行場から約10分間東京の空を飛んだ。 この時期、郵便集配人の騒動があった。1928年(昭和3年)3月本郷郵便局の集配人が小包郵便取扱上の過失で解雇、同局で別の集配人が不穏な行為があったとして罷免、と本郷郵便局長が決断し逓信局長が了承した。これに怒った逓信系労働団体の逓友同志会は従業員大会を開き、2名の件は上司の感情的な不当解雇であるとして復職を要求、更に団体活動の自由を要求し、抗議としてストライキを起こそうとしていた。逓友同志会はこれらを持って本郷郵便局長、逓信局長、そしてその上の逓相の望月を訪れ抗議した。官僚が決定した案件であるが望月は「解雇する程度のものではない、諸君の云うのが合理的だ」と決定を覆し、1人は解雇処分を取り消し元の本郷に、もう1人は他局への異動とし、団体活動にも理解を示した。更に望月はその集配人2人を大臣室に呼びつけ直々に諭したのである。官僚のメンツを潰してまで大臣が直接裁いたこの事件は当時前代未聞のことであった。大臣室にまで呼ばれた2人はあっけにとられ、逓友同志会側も望月の一連の行動に感服し、無産政党も望月には一目置くようになった。 田中内閣において望月逓相は水野錬太郎文相とともに内閣円満運営のための調停役として動いていた。第1回普通選挙では政友会選挙相談役となり、選挙後は政友会と実業同志会との協定に向け動いている。
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