岡田内閣と昭和会
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先に立憲政友会を離れた床次竹二郎・山崎達之輔・内田信也は新党結成を画策した。1936年(昭和11年)春に総選挙が迫っていたため急がなければならなかった。ただ政友会からの引き抜きはうまく行かなかった。そこへ中心人物である床次が急死、新党結成は計画の段階で自然消滅し、そして岡田内閣にとっては床次の後任の逓相を選定する必要に迫られた。挙国一致内閣であった岡田内閣の閣僚は各党・官僚の微妙な勢力バランスで成り立っており、新しい逓相には各勢力の利害関係が一致する人物にするしかなかった。立憲民政党の人物はこれ以上勢力を拡大させたくない官僚勢が反対、国民同盟(民政党から分裂した党)の人物は民政党が反対し、最大野党である政友会から引き抜こうとしたがうまく行かなかったため、様々な条件に合致するとして政友会を離れたばかりの望月が入閣するしかなくなったのである。 1935年9月12日付で岡田内閣での逓信大臣に就任した。望月にとっては2度目の逓相となる。翌9月13日高橋是清・望月・山崎・内田の4閣僚が新党結成に向けて協議し、同年12月23日4閣僚と14人の政友会脱党議員からなる新政党“昭和会”を結成した。 この2次逓相時代の一番の実績は、同盟通信社の設立である(同盟通信社#誕生までの経緯参照)。設立には岩永裕吉が小泉又次郎・床次・望月の歴代3逓相を説得したことで動き出すが、一方で電通や各地方新聞社がこれを反対した。実は望月は逓相となる以前から両者の斡旋に動いている。それは電通が政友会と関係が深く、その創始者光永星郎は望月とは旧知の仲であったためであり、反対する光永を説得したのである。光永は「人情家と云われる貴方が、多年の友人たる自分が窮境に陥ってるのに救ってくれないのみか、反対側に立って私を攻めるとは何事だ」と憤慨したという。望月が逓相に就任すると岩永とともに反対勢力との融和を図ったが、反対側にも便宜をはかろうとした望月の真意が分かると今度は岩永が望月に反発した。“人情家”望月はこれらの融和を図ったのである。そして一応の見通しがたったとして同年11月7日社団法人設立の認可をだした。 政友会の提出した内閣不信任決議が可決されたことを受けて、1936年(昭和11年)1月21日衆議院解散、同年2月20日に行われた第19回総選挙の結果、政友会は大敗、民政党が第一党となり昭和会と国民同盟の議席を合わせ与党は安定多数を獲得した。この6日後に二・二六事件が起こり、岡田内閣は崩壊するのである。 1936年2月26日、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが下士官兵を率いてクーデターを起こし、結局は未遂に終わる。岡田内閣では首相の岡田と蔵相の高橋が襲撃され、事件発覚当初は岡田・高橋ともに殺害されたと伝わる(後に岡田は義弟と間違えられたことにより助かったとわかる)。望月は二・二六事件の朝、原宿の自宅にいた。事件発覚後、原宿警察署長が望月の家の警備に入り望月に避難勧告をした。望月は「こういう時にいつ宮中からお召しがあるも知れない、その時に望月圭介が家に居たとあっては一大の恥だ」とこの勧告を受け入れず、天機奉伺に宮中に参内すると自動車に乗って皇居へ向かった。ただ賊軍が取り囲み通そうとしなかったため一旦家に帰ったが、参内したい気持ちを抑えられず再び皇居へ向かうと竹橋門前で賊軍に阻止された。そこで望月は「自分は国務大臣として天機奉伺のため参内するのだ、通せ」と毅然とした態度で抗議した。これに負けた賊軍は通すに至った。この時参内した閣僚で閣議が行われ、後藤文夫内相の総理大臣臨時代理を決定、即座に上奏裁可、同日午後6時に発表した。同時に岡田内閣総辞職も決定、同日深夜に後藤首相臨時代理は全閣僚の辞表を奉呈する。翌2月27日内閣は高橋蔵相薨去と町田忠治商相の蔵相兼任を発表する。後に岡田首相が生きていたとわかり後藤臨時代理の退任、と当時に岡田首相と町田兼任蔵相は辞表を奉呈し、3月9日内閣総辞職となった。また望月はこの期間逓信大臣として放送および電信電話を掌握、戒厳司令部と連携して臨機応変に措置している。 高橋死去後、昭和会は望月と内田が牛耳っていた。廣田内閣、林内閣と昭和会は与党であったが、政友会は野党、林内閣では民政党も野党に回り、未だ政争が繰り広げられていた。少数与党の林内閣はこの二大政党を相手に苦戦し、懲罰的な意味で衆議院解散したものの、第20回衆議院議員総選挙では与党議席を減らすこととなり、結果林内閣は短命での総辞職となった。 第20回総選挙後の昭和会集会にて望月は、激動する国際および国内情勢に対して政治は一致団結して取り組まなければならない状況となったため、既存の政党は一度解散して一つにまとまるべきで、その先陣として昭和会を解党するべき、と演説した。名川侃市は、この時の望月の主張は松岡洋右の思想とよく似ており、秋田清を通じて両者が何らかの接触があったのでは、と述べている。望月は林内閣瓦解の1週間前に林銑十郎首相と会い昭和会解散の旨を伝えており、この行動は不安定な林内閣に不穏な行動をしたとして批判されている。そして昭和会は1937年(昭和12年)5月21日自主解散となった。つまり、昭和会解散は望月が主導したことになる。
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