岡田内閣と昭和会とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 岡田内閣と昭和会の意味・解説 

岡田内閣と昭和会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:49 UTC 版)

望月圭介」の記事における「岡田内閣と昭和会」の解説

先に立憲政友会離れた床次竹二郎山崎達之輔内田信也新党結成画策した。1936年昭和11年春に総選挙迫っていたため急がなければならなかった。ただ政友会からの引き抜きはうまく行かなかった。そこへ中心人物である床次が急死新党結成計画の段階で自然消滅し、そして岡田内閣にとっては床次の後任逓相選定する必要に迫られた。挙国一致内閣であった岡田内閣閣僚は各党・官僚微妙な勢力バランス成り立っており、新し逓相には各勢力利害関係一致する人物にするしかなかった。立憲民政党人物これ以上勢力拡大させたくない官僚勢が反対国民同盟民政党から分裂した党)の人物民政党反対し、最大野党である政友会から引き抜こうとしたがうまく行かなかったため、様々な条件合致するとして政友会離れたばかりの望月入閣するしかなくなったのである1935年9月12日付で岡田内閣での逓信大臣就任した望月にとっては2度目逓相となる。翌9月13日高橋是清望月山崎内田の4閣僚新党結成向けて協議し同年12月23日4閣僚14人の政友会脱党議員からなる新政党“昭和会”を結成した。 この2次逓相時代の一番の実績は、同盟通信社設立である(同盟通信社#誕生まで経緯参照)。設立には岩永裕吉小泉又次郎・床次・望月の歴代3逓相説得したことで動き出すが、一方で電通各地方新聞社がこれを反対した。実は望月逓相となる以前から両者斡旋動いている。それは電通政友会と関係が深く、その創始者光永星郎望月とは旧知の仲であったためであり、反対する光永説得したのである光永は「人情家と云われる貴方が、多年友人たる自分窮境に陥ってるのに救ってくれないのみか、反対側に立って私を攻めるとは何事だ」と憤慨したという。望月逓相就任する岩永とともに反対勢力との融和図ったが、反対側にも便宜はかろうとした望月の真意分かる今度岩永望月反発した。“人情家望月はこれらの融和図ったのである。そして一応の見通しがたったとして同年11月7日社団法人設立認可をだした。 政友会提出した内閣不信任決議可決されたことを受けて1936年昭和11年1月21日衆議院解散同年2月20日行われた第19回総選挙結果政友会大敗民政党第一党となり昭和会国民同盟議席合わせ与党安定多数獲得した。この6日後に二・二六事件起こり岡田内閣崩壊するのである1936年2月26日陸軍皇道派影響受けた青年将校らが下士官兵率いてクーデター起こし結局は未遂に終わる。岡田内閣では首相岡田蔵相高橋襲撃され事件発覚当初岡田高橋ともに殺害されたと伝わる(後に岡田義弟間違えられたことにより助かったとわかる)。望月二・二六事件の朝、原宿自宅にいた。事件発覚後原宿警察署長が望月の家の警備入り望月避難勧告をした。望月は「こういう時にいつ宮中からお召しがあるも知れないその時望月圭介が家に居たとあって一大の恥だ」とこの勧告受け入れず天機奉伺宮中参内する自動車乗って皇居向かった。ただ賊軍取り囲み通そうとしなかったため一旦家に帰ったが、参内したい気持ち抑えられず再び皇居へ向かうと竹橋門前で賊軍阻止された。そこで望月は「自分国務大臣として天機奉伺のため参内するのだ、通せ」と毅然とした態度抗議した。これに負けた賊軍は通すに至った。この時参内し閣僚閣議が行われ、後藤文夫内相総理大臣臨時代理決定即座に上奏裁可同日午後6時発表した同時に岡田内閣総辞職決定同日深夜後藤首相臨時代理は全閣僚辞表奉呈する。翌2月27日内閣高橋蔵相薨去町田忠治商相の蔵相兼任発表する。後に岡田首相生きていたとわかり後藤臨時代理退任、と当時岡田首相町田兼任蔵相辞表奉呈し、3月9日内閣総辞職となった。また望月この期逓信大臣として放送および電信電話掌握戒厳司令部連携して臨機応変措置している。 高橋死去後昭和会望月内田牛耳っていた。廣田内閣林内閣昭和会与党であったが、政友会野党林内閣では民政党野党回り未だ政争繰り広げられていた。少数与党林内閣はこの二大政党相手苦戦し懲罰的な意味で衆議院解散したものの、第20回衆議院議員総選挙では与党議席を減らすこととなり、結果林内閣短命での総辞職となった第20回総選挙後昭和会集会にて望月は、激動する国際および国内情勢に対して政治一致団結して取り組まなけれならない状況となったため、既存政党一度解散して一つにまとまるべきで、その先陣として昭和会解党するべき、と演説した名川侃市は、この時の望月の主張松岡洋右思想とよく似ており、秋田清通じて両者何らかの接触があったのでは、と述べている。望月林内閣瓦解1週間前に林銑十郎首相会い昭和会解散の旨を伝えており、この行動不安定な林内閣不穏な行動をしたとして批判されている。そして昭和会1937年昭和12年5月21日自主解散となった。つまり、昭和会解散望月主導したことになる。

※この「岡田内閣と昭和会」の解説は、「望月圭介」の解説の一部です。
「岡田内閣と昭和会」を含む「望月圭介」の記事については、「望月圭介」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「岡田内閣と昭和会」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「岡田内閣と昭和会」の関連用語

岡田内閣と昭和会のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



岡田内閣と昭和会のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの望月圭介 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS