二大政党制
二大政党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:44 UTC 版)
共和党は、南北戦争時の自由労働イデオロギーに立つ連合政党から実業人がリードするブルジョア政党へと、その性質を徐々に変えていったが、1870年代後半以降、政界の腐敗への対応をめぐって深刻な分裂の危機にさらされた。 ロスコー・コンクリング(英語版)上院議員率いる共和党愛党派(英語版)は、猟官制や「マシーン」と呼ばれた集票組織を擁護したのに対し、メイン州選出のジェイムズ・G・ブレイン上院議員らは資格任用制に基づく官庁改革を唱えて対立し、愛党派からは「混血派(英語版)」との罵声を浴びた。これは「半分しか共和党員でない」という意味であった。1880年共和党全国大会では、愛党派のグラントが前例のない大統領三選を目指したのに対し、改革派からはブレインやジョン・シャーマンらが立候補し、誰もが過半数を獲得できないまま投票が繰り返された。ようやく36回目の投票で、ブレインとシャーマンは、一部の票を集めていたジェームズ・ガーフィールドの支持に回り、最終的にガーフィールドが候補指名を受け、本選挙で当選を果たした。しかし、その6か月後にガーフィールド大統領暗殺事件が起こってしまう。後任大統領として愛党派の副大統領チェスター・A・アーサーが就任したが、アーサーは愛党派の期待をよそに官庁改革を実施し、ペンドルトン公務員改革法(英語版)を成立させて、資格任用制に基づく公務員任用に改めた。 一方、民主党は1870年代後半以降、南北戦争の痛手から完全に回復した。民主党のグロバー・クリーブランドは1884年からの4年と、1892年からの4年、連続でない2期にわたって大統領職を務めたる。1884年大統領選挙予備選では、ジェイムズ・ブレインが現職大統領のアーサーを破って共和党候補となったが、このときブレイン側に汚職スキャンダルが発覚し、これを批判した党内改革派の一部が離党してクリーブランド支持に回り、南北戦争後はじめて民主党政権が誕生した。クリーブランドは、財界贔屓のブルボン民主党(英語版)の一員であり、古典的自由主義を信奉し、財政保守主義と腐敗政治の打破を掲げた。 1888年の大統領選挙では、共和党の積極的な選挙運動が功を奏し、ベンジャミン・ハリソンがクリーブランドを破って当選した。内戦後、北部の経済は産業、鉄道、鉱山および農業で栄え、都市の発展もめざましかった。共和党は高度成長を持続させる政策を展開し、大規模な政府支出を行って大企業全般を支援し、金本位制への移行や高関税政策を支持し、北部の退役軍人にも多額の年金を約束した。しかし、1890年、ハリソン政権が成立させたマッキンリー関税(英語版)は極度に高税率だったため、きわめて不評であった。一方で、中小企業の要請に応えて反トラストのシャーマン法を制定したが、こちらは議会により骨抜きにされてしまった。マッキンリー関税の影響は甚大で、1890年の中間選挙では共和党が大敗、ウィリアム・マッキンリー自身も下院議員の職を失った。 この勢いに乗って1892年の大統領選挙ではクリーブランドが返り咲きを果たした。民主党の影響が強まるなか、1880年代以降19世紀末まで、南部では黒人の公民権剥奪(英語版)が行われ、有色人種を隔離する法が成立した。クリーブランドの2期目は1893年恐慌と同時に始まったが、かれはこれを立て直すことができなかった。 共和・民主の二大政党による競争は熾烈をきわめ、勢力は拮抗した。1876年から1892年の大統領当選者のうち、一般投票率が50パーセントを超えた者は誰もいなかったほどである。国民はきわめて活発に政治に参加し、大統領選挙はじめ各種選挙の投票率は常に80パーセント前後を記録した。人びとの政党への帰属感情は強く、選挙では両党に分かれて大規模なパレードに参加するなど、それはあたかも祝祭の様相を呈した。こうした熾烈な競争にもかかわらず二大政党には重要な争点がなかったともしばしば評されるが、実は選挙民にとっては身近で、それゆえ切実でもある争点が存在していた。 共和党は、みずからを南北戦争で勝利した愛国者の党、進歩の党として位置づけ、民主党を「反逆者の党」と呼んで糾弾した。禁酒や安息日の遵守、カトリックなどによる教区学校の規制、外国人排除などのような「民族・文化的争点」においては、共和党はプロテスタント的な立場を鮮明にして厳しい取り締まりを主張した。一方の民主党は、みずからを「反中央集権」の党とする立場から、右のような問題を各人の内面の問題として取り締まりに反対し、「個人の自由」を主張した。南部ではまた、「失われた大義」を体現する党として白人の忠誠心をつかんでいた。唯一の経済的争点ともいえる関税問題では、共和党は保護関税を主導し、民主党は自由貿易と低関税を主張した。民主党はまた、アメリカの海外進出にも反対し、のちのハワイ併合でもこれに反対している。 草の根民主主義から発展してアメリカでは南北戦争後「職業としての政治」が確立し、各地でいわゆる「ボス政治家」が生まれたが、このような状態は、政治を「ノブレス・オブリージュ」とみなす貴族主義的なエリートからは強い反感を受けた。
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