けんせい‐の‐じょうどう〔‐ジヤウダウ〕【憲政の常道】
憲政の常道
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憲政の常道(けんせいのじょうどう)とは、大日本帝国憲法下の日本において一時期運用されていた、政党政治における政界の慣例のこと。
「天皇による内閣総理大臣や各国務大臣の任命(大命降下)において、衆議院での第一党となった政党の党首を内閣総理大臣とし組閣がなされるべきこと。また、その内閣が失政によって倒れたときは、組閣の命令は野党第一党の党首に下されるべきこと。そして政権交代の前か後には衆議院議員総選挙があり、国民が選択する機会が与えられること。」とするもの。
あくまで慣例であり、法的拘束力はなかったという説と慣例として認められた「憲法習律」であるとする説に分かれている。
経緯
「憲政の常道」とはもともと第一次護憲運動の際に用いられたスローガンであり、この時には主としてイギリス流議院内閣制のことを指していた[1]。一方、原敬は首相在任期に衆議院多数派と貴族院の多数派が相互に提携しながら交互に政権を担うことが憲政の常道であると語ったとされ、憲政常道論には諸説があった。[2]
しかし一般に「憲政の常道」とは加藤高明内閣の成立から犬養毅内閣の崩壊までにかけて確立されていた政党政治の慣例のことを指す。1924年(大正13年)に内閣総理大臣となった清浦奎吾が陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣を除く全閣僚を貴族院議員で構成する特権内閣を組閣したことに対抗して、憲政会、政友会、革新倶楽部の三党は護憲三派を結成し、第2次護憲運動を展開。解散後の総選挙で圧勝した[3]。元老の西園寺公望は、この選挙結果をみて、それまで忌避していた憲政会総裁の加藤高明を総理大臣に推薦する決心をした。政局の安定のためには加藤を推すのが穏当と考えたからである[4]。加藤は陸奥宗光の影響や自身の体験から、イギリスやアメリカの二大政党制を理想としていて[5]、総選挙後に野党党首が組閣するという日本で初めての例を開いた[6]。憲政の常道が確立した理由として、西園寺の権威が絶対的だったことが挙げられている。政治家は西園寺の意図を忖度して行動し、自らの野望や落胆を抑制し忍耐することができたのである。しかも、西園寺の選択は彼らの野望と一致しなくてもそれなりの説得力を持っていたからである[7]。
加藤内閣は1925年(大正14年)に公約の男子普通選挙を法定し、貴族院改革にも着手したが、伯爵・子爵・男爵の貴族院互選議員を若干減員し、帝国学士院会員からの選出議員を新設し、多額納税議員を若干増員する改革にとどまり、世論の要求する抜本的な改革とはならなかった[3]。
しかしこの内閣の成立がきっかけとなり[3]、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職におよんだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣ではない。それならば、直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである」という原理にもとづいて、元老による内閣首班の推薦がおこなわれるようになった。これが憲政の常道である[8]。内閣の失政による内閣総辞職が条件のため、首相の体調不良や死亡による総辞職の場合、与党の後継党首に組閣の大命が下される[9]。
この憲政の常道の慣例の確立に伴って政友会と民政党の両党の二大政党制が生まれた[3]。
しかし普通選挙の実施に伴って政党は多額の選挙資金を必要とするようになり、その結果政党は財界との結びつきを強め、様々な汚職事件を起こすようになった。「政党政治の腐敗」への批判が高まっていき、軍の青年将校や国家主義団体などの間で政党政治打倒を目指す動きが活発となった[10]。
それが事件となって表れたのが1932年(昭和7年)に急進的な海軍青年将校が中心となって起こした五・一五事件であった。この事件により首相の犬養毅が暗殺されて政党内閣の犬養内閣が崩壊。軍部の意向と犯行におよんだ軍人に同情的な世論を考慮した結果として、政友会の後継総裁となった鈴木喜三郎に大命降下はされず、退役海軍大将の斎藤実が首相になり、政友会と民政党から閣僚を採用して挙国一致内閣を組織した。退役海軍軍人を首班とする内閣の発足により、政党内閣は崩壊し憲政の常道は終了した[11]。これを契機に軍部の発言権が増し、社会では右翼団体が続出して出版界も右傾化、急進的な国家改造運動に対する国民の共感も増していった[12]。
大日本帝国憲法下の政党内閣の推移
成立日 | 内閣 | 政権政党 | 総辞職理由 |
---|---|---|---|
1924年(大正13年)6月11日 | 加藤高明内閣 | 憲政会 | 首相の病死 |
1926年(大正15年)1月30日 | 第1次若槻内閣 | 憲政会 | 昭和金融恐慌の処理問題 |
1927年(昭和2年)4月20日 | 田中義一内閣 | 立憲政友会 | 張作霖爆殺事件の処理問題 |
1929年(昭和4年)7月2日 | 濱口内閣 | 立憲民政党 | テロリストの銃撃による負傷による首相の体調不良(実質首相暗殺) |
1931年(昭和6年)4月14日 | 第2次若槻内閣 | 立憲民政党 | 満州事変の処理問題 |
1931年(昭和6年)12月13日 | 犬養内閣 | 立憲政友会 | 首相暗殺 |
政党内閣なし | |||
1945年(昭和20年)10月9日 | 幣原内閣 | 日本進歩党・日本自由党 | 総選挙後に野党が衆議院第一党に躍進 |
1946年(昭和21年)5月22日 | 第1次吉田内閣 | 日本自由党・日本進歩党 | 総選挙後に野党(日本社会党)が衆議院第一党に躍進 |
日本国憲法下での憲政の常道
日本国憲法下では、国会議員の投票(衆議院の優越から、実際には衆議院議員の投票)で機械的に首相が決まるので、比較第一党から首相が選出されることはほぼ確実に守られるようになったが、一方で野党第一党に首相が譲られることは基本的にはない。
しかし制度移行前後の一時期は、大日本帝国憲法下での慣例が守られた事例がある。1947年(昭和22年)の衆院選後の首班指名選挙では、ほぼ全会一致というかたちで衆議院第一党である日本社会党の委員長であった片山哲を選出した。片山内閣の総辞職後に民主党(与党第二党、比較第三党)の芦田均が指名された時には、参議院緑風会は「憲政の常道」の論理から野党第一党の日本自由党へ投票した。更に芦田内閣の崩壊後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は国民協同党(与党第三党)の三木武夫に首相就任を打診したが、三木は「憲政の常道」を持ち出して辞退した。
1954年(昭和29年)12月にも自由党の総理大臣吉田茂が退陣し、「憲政の常道」によって野党第1党だった民主党の鳩山一郎が総理大臣に就任し、早期解散を表明し、発足後1カ月余りの1955年1月に衆議院解散している[13]。
55年体制成立後は、自由民主党の優位が固定され、野党第一党の日本社会党が次第に政権獲得への意欲を失っていったこともあり、内閣総辞職後に後任の自由民主党総裁が首相職を辞退することはなくなった。また、投票の際の全会一致の慣例は早々に廃れた[14]。
1993年(平成5年)には、比較第一党の自民党の議席数を反自民野党連合が上回ったことによって、日本新党(比較第五党、連立内第四党)の細川護熙が首相に選出された。細川内閣が倒れた後も枠組みはそのまま維持されて新生党(比較第三党、与党第二党)の羽田孜を後任に選出、更にその後任を巡っては無所属の海部俊樹(自民党を離党)と野党第二党の村山富市が争う事態に至る(村山が選出)。1955年以降で第一党以外から首相が選出されたのはこの3例のみ。
「憲政の常道」は、野党が与党による政党内での首相職のたらいまわしを批判するフレーズとして使われることはある。例えば2008年9月、福田康夫内閣が総辞職した際、民主党の小沢一郎代表は、「憲政の常道をわきまえ、野党に政権を譲るよう主張する。そうでないなら、次は選挙管理内閣なので、一刻も早く解散・総選挙をして国民に信を問うことを求める」と主張していた[15]。なお、後の民主党政権でも鳩山由紀夫内閣の退陣後には引き続き民主党から菅直人が、菅の退陣後には野田佳彦が首班に指名された。
脚注
- ^ 精選版 日本国語大辞典 「憲政の常道」
- ^ 北岡伸一「政党政治確立過程における立憲同志会・憲政会(上)」1983年1月教法学21』)
- ^ a b c d 世界大百科事典「帝国議会」
- ^ 升味(1979: 10)
- ^ 奈良岡(2006: 127)
- ^ 奈良岡(2006: 411)
- ^ 升味(1979: 13)
- ^ 升味(1979: 10-11)
- ^ 升味(1979: 11)
- ^ 世界の歴史まっぷ 「政党政治の展開」
- ^ 近現代史研究室 『学び直す日本史〈近代編) PHP研究所 2011年3月16日、181頁
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ) 「五・一五事件」
- ^ 朝日新聞掲載「キーワード」「憲政の常道」
- ^ 衆議院議長・参議院議長選挙においては、全会一致の原則が慣例として定着している。副議長選挙においても同様。ただし、任期中の辞任によって野党にポストが移ることはない。
- ^ “早期解散要求の民主党、衆院選準備を加速”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2008年9月3日) 2009年11月15日閲覧。
参考文献
- 升味準之輔『日本政治史(3)政党の凋落、総力戦体制』、東京大学出版会、 1988年
- 升味準之輔、1979、『日本政党史論』初版、第5巻、東京大学出版会
- 奈良岡聰智、2006、『加藤高明と政党政治…二大政党制への道』初版、山川出版社 ISBN 4634520117
- 倉山満、2004,『憲法習律としての「憲政の常道」』 憲法論叢(11)P47-68 関西憲法研究会
関連項目
憲政の常道
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護憲三派が1925年(大正15年)7月に決裂し、加藤高明首相は辞表を提出した。西園寺は加藤首相を支持していたため、そのまま留任させるべきと考えていた。病気で引退した平田の後を継いだ牧野内大臣も同じ意見であったが、摂政宮裕仁親王は西園寺の上奏を受けた後に、牧野の意見を確認した。この方式は加藤高明首相の病死後の選定時にも継続されることになった。1926年10月14日、西園寺は摂政宮に拝謁し、「政変があった場合には、元老だけではなく内大臣にも下問がある」「西園寺が死去した場合は、内大臣が主に下問を受け、意見を求めたい人がいる場合は勅許を得て参加させる」と奏上した。これは牧野内大臣との事前打ち合わせなく行われたことであり、西園寺が元老の補充をあきらめた為と見られている。永井和は平田内大臣時に行われていた元老下問前の内大臣への下問とあわせ、「元老・内大臣協議方式」による首相選定であるとしている。しかし伊藤之雄は元老と内大臣は同格ではなく、両者が協議したような形容は内大臣を過大評価しすぎていると指摘している。 1927年(昭和2年)に第1次若槻内閣が倒れると、牧野内大臣は一木喜徳郎宮内大臣、珍田捨巳侍従長、河井彌八侍従次長と協議し、後継には第二党政友会の総裁である田中義一が適任であるとした。河井侍従次長は勅使として西園寺の元に向かい、協議した意見を伝えた。西園寺も同意見であると答え、田中義一内閣が成立した。1928年(昭和3年)に発生した張作霖爆殺事件の後、真相の公表方針を翻した田中に天皇及び牧野ら宮中は厳しい対応をとろうとした。これに対して西園寺は首相の辞任につながると反対したが、宮中はこれを押し切って田中への問責を行い、田中義一内閣は崩壊することになった。これは軍人・右翼・政友会等に牧野への反感と昭和天皇がそれに引きずられているという印象をもたらした。1929年(昭和4年)7月2日、田中が辞表を提出し、下問を受けた西園寺と牧野が宮中で会談したのち、西園寺が第二党立憲民政党総裁の浜口雄幸を推薦し、牧野が同意するという形で浜口内閣が成立した。ロンドン海軍軍縮条約締結に関しては、条約に反対する枢密院の倉富勇三郎議長と平沼騏一郎副議長が条約批准に反対しようとしていたが、西園寺は浜口首相を激励し、枢密院を折れさせた。しかし浜口首相は銃撃事件で重傷を負い、1931年(昭和6年)に辞表を提出したため、同じ民政党の若槻が後継首相となり、第2次若槻内閣が成立した。 西園寺はこの時期議会勢力に重点を置いた推薦を行い、衆議院第一党の党首を首相とし、第一党に問題がある場合は第二党の党首を首相とするという、いわゆる「憲政の常道」を実現させることとなった。西園寺自身は「憲政の常道」を認める発言を行ったことはなかったが、世論には受け入れられ、元老に対する批判もほとんど無くなっていった。しかし政党内閣は昭和恐慌や昭和金融恐慌に十分な対応がとれず、また疑獄事件も頻発したことで信頼を失っていった。
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憲政の常道
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大日本帝国憲法下では、1925年(大正14年)に普通選挙法が制定されたのち、二大政党である立憲政友会と憲政会(のち立憲民政党)とが、憲政の常道に基づいて交互に政権を担当した時期があった。 両者の特徴として、政友会は保守的で地主や大財閥の利益に密接であり、現代の自由民主党に近いものであった。一方で民政党は「議会中心主義」を掲げ、革新的で都市部の中産階級から支持されており、旧民主党(のちの立憲民主党など)に近いものであった。
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