後継首相の選定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 22:26 UTC 版)
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望にたいして後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、この時は西園寺は興津から上京し、牧野内大臣の勧めもあって、首相経験者の山本権兵衛・若槻禮次郎・清浦奎吾・高橋是清、陸海軍長老の東郷平八郎元帥海軍大将・上原勇作元帥陸軍大将、枢密院議長の倉富勇三郎などから意見を聴取した。(詳細は重臣会議を参照) 当時、誰を首相にするかについては様々な意見があった。 総裁を暗殺された政友会は事件後すぐに鈴木喜三郎を後継の総裁に選出し、政権担当の姿勢を示していた。 昭和天皇からは鈴木貫太郎侍従長を通じて後継内閣に関する希望が西園寺に告げられた。その趣旨は、首相は人格の立派な者、協力内閣か単独内閣かは問わない、ファッショに近いものは絶対に不可、といったものであった。 陸軍の内部では平沼騏一郎という声が強く、政友会でも森恪らはこれに同調していた。また陸軍の革新派には荒木貞夫をかつぎだし軍人内閣を作れという要求もあった。いずれにせよ陸軍は政党内閣には反対であった。 結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために退役海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請、挙国一致内閣を組織する。西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば憲政の常道に戻すことを考えていたとされる。ともかくもここに8年間続いた憲政の常道の終了によって政権交代のある政治及び政党政治は崩壊し、第二次大戦後まで復活することはなかった。
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