内閣成立までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:06 UTC 版)
1932年(昭和7年)5月、内閣総理大臣の犬養毅が武装した海軍青年将校らに殺害されたあと(五・一五事件)、元老の西園寺公望は、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫から政党内閣の拒絶の意を伝えられ、また対米英協調派の昭和天皇の意向を受けて、次期首相の推薦についての調整を行った。その結果、シーメンス汚職事件で引責辞任した元海軍大臣で、朝鮮総督在任の時期に子爵の爵位を授与されていた穏健派の斎藤実が首相として推薦されることとなった。 犬養毅総裁及び首相を失った立憲政友会はこのとき、テロによる内閣総辞職の後の首班には同じ政党の党首を推薦するという元老の慣例を考慮し、元老と天皇による次期党首の次期首相指名という大命降下を期待していた。 ここで、右派の森恪らは次期総裁・首相として、右翼とつながりを有しナチズムやファシズム、共産主義など外来思想を危険視していた司法官僚で枢密院副議長の平沼騏一郎を押していたが、立憲政友会は5月17日、鳩山一郎の義弟である鈴木喜三郎を選出していた。 元老西園寺公望も当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ、不穏な情勢となった。21日、西園寺は重臣や元帥の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にした。斎藤は「英語に堪能で、条約派に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていた」という。 同26日、第30代内閣総理大臣に就任(同年7月6日まで外務大臣兼任)。 齋藤内閣は立憲政友会と立憲民政党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)であった。 (詳細は、「五・一五事件#後継首相の選定」を参照。)
※この「内閣成立までの経緯」の解説は、「齋藤内閣」の解説の一部です。
「内閣成立までの経緯」を含む「齋藤内閣」の記事については、「齋藤内閣」の概要を参照ください。
- 内閣成立までの経緯のページへのリンク