内閣総理大臣に就任
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1941年12月に日本は大東亜戦争に参戦したが、戦況が悪化した1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。 構成メンバーは6名の総理大臣経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。 東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。 重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。「軍人は政治に関与せざるべし」という信念 から辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。鈴木は自身に政治的手腕はないと思っていたが、「頼む」とまで言われるとそれ以上は固辞しなかった。天皇から頼まれて首相に就任するというのは異例のことだった。また、かつて鈴木を侍従長に推した貞明皇后からも信頼を得ており、天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対して「どうか陛下の親代わりになって」と言葉をかけた。 鈴木は非国会議員、江戸時代生まれ という二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。満77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は、戦前・戦後を通じて日本最高齢の記録である。 鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した。 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}今日(こんにち)、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。 — 昭和20年4月7日、内閣総理大臣 鈴木貫太郎
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