じゅうしん‐かいぎ〔ヂユウシンクワイギ〕【重臣会議】
重臣会議
重臣会議(じゅうしんかいぎ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 17:24 UTC 版)
「彩雲国物語の用語」の記事における「重臣会議(じゅうしんかいぎ)」の解説
※この「重臣会議(じゅうしんかいぎ)」の解説は、「彩雲国物語の用語」の解説の一部です。
「重臣会議(じゅうしんかいぎ)」を含む「彩雲国物語の用語」の記事については、「彩雲国物語の用語」の概要を参照ください。
重臣会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。しかし現実に、小磯内閣は陸海軍が統帥権を楯に従わず、苦境に陥っていた。正しく「軍がソッポを向いた」のであり、東條の指摘は的確であった。唯一の同盟国のドイツも降伏が間近になり、日本も戦局が完全に連合国軍に対して劣勢となったこともあり、重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが徹底抗戦を主張し重臣の中で孤立していた。
※この「重臣会議」の解説は、「東條英機」の解説の一部です。
「重臣会議」を含む「東條英機」の記事については、「東條英機」の概要を参照ください。
「重臣会議」の例文・使い方・用例・文例
重臣会議と同じ種類の言葉
- 重臣会議のページへのリンク