重臣時代・戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:58 UTC 版)
その後、若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、重臣会議のメンバーにもなった。重臣グループでは岡田啓介とともに和平派・穏健派の中心人物であり、昭和天皇からの信任もきわめて厚かった。昭和10年代前半に次期内大臣という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。 昭和16年(1941年)には、東條英機を次期首相として奏薦した重臣会議において、宇垣一成を次期首相に推し、論争を繰り広げている。戦争末期には重臣の一人として終戦工作に関与した。昭和19年(1944年)には、重臣会議に出席した東條を戦時経済遂行の面で激しく論難、東條の面目を失墜させ、東條内閣倒閣に重要な役割を果たした。昭和20年(1945年)に入ってからは鈴木貫太郎内閣の奏薦やポツダム宣言受諾などに大きく関わった。 戦後、東京裁判の首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは昭和23年(1948年)10月に若槻、岡田、宇垣、米内光政の4人を「戦前を代表する平和主義者」と称え、パーティーに招待している。 若槻は、それから約1年後の昭和24年(1949年)11月20日、狭心症で倒れ、静岡県伊東市の別邸に於いて死去。享年83(満)。なお、この別邸は現在日帰り温泉施設の伊東わかつき別邸となっている。
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