重興塩谷氏(再興塩谷氏)
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重興塩谷氏(再興塩谷氏)歴代初代塩谷孝綱 文明2年(1470年)5月5日生 - 天文15年(1546年)10月19日没 伯耆守 民部大輔 2代塩谷義孝 長享2年(1488年)正月5日生 - 永禄7年(1564年)10月7日没 伯耆守 民部大輔 3代塩谷義綱 永禄2年(1559年)正月20日生 - 寛永8年(1631年)12月9日没 伯耆守 民部大輔 4代塩谷義通 天文16年(1547年)月日不詳生 - 慶長3年(1598年)11月1日没 日向守 5代岡本保真 (塩谷惣十郎) 天正10年(1582年)月日不詳生 - 正保元年(1644年)3月10日没 6代塩谷保正 生没年不詳 7代塩谷吉正 生没年不詳 8代塩谷明正 元禄6年(1693年)月日不詳生 - 宝暦7年(1757年)7月26日没 9代塩谷奉正 享保4年(1719年)月日不詳生 - 寛政7年(1795年)5月7日没 10代塩谷正義(大四郎) 明和6年(1769年)6月14日生 - 天保7年(1836年)9月8日没 贈正五位 11代塩谷正路 享和元年(1801年)1月28日生 - 明治7年(1874年)月日不詳没 正五位豊後守、大夫 12代塩谷正是 生没年不詳 孝綱は藤姓塩谷氏と同族の宇都宮氏嫡流の出身なので、藤姓であることには変わりないが(ただし孝綱の父の正綱は芳賀氏(清原姓)からの養子)、それ以前と区別して重興塩谷氏(再興塩谷氏)などと呼ばれる。「秋田塩谷系譜」では、義孝と義綱の間に時綱、冬綱、通綱という3人の当主がいたとする。ただし後世において、功績のあった塩谷氏の一族の者に当主の地位を追贈した可能性もあるので、完全に架空の存在であるとも言い切れない。また、義通については、義綱が家督を継いだのは天正2年(1574年)11月のことであり、義孝の死去から10年のブランクがあるため、正室の子である義綱が元服するまでの間、繋ぎ的に塩谷氏の当主であった可能性も指摘されている。一説では、時綱が義孝の弟で、結城晴朝と戦って討死した乙畑孫四郎こと塩谷義尾(没年が同じ永禄二年(1559年))、冬綱が孝信、通綱が義通とも言われている。 重興塩谷氏の時代に入り、永禄7年(1564年)10月7日に、義孝が弟の孝信に殺害され川崎城を奪われて以降内紛が続き、天正18年(1590年)には、家臣の岡本正親に独立されるなど衰退していく。 文禄4年(1595年)2月8日、塩谷義綱には豊臣秀吉により改易が言い渡される。系譜に理由の記載は無いが、この2年後に本家である宇都宮氏も改易された事実とあわせて考えると、豊臣政権内の政争に巻き込まれたものと考えられているが定かではない。また、塩谷氏については、小田原征伐の際、直接参陣しなかったために改易されたとする見解もあるが、義綱は、天正17年(1589年)6月29日に上洛して秀吉に恭順の意を表しており、小田原征伐では、名代として家臣の岡本正親を派遣していることから、この時に改易になったとは考え難い。 文禄4年(1595年)に改易されたが、捨扶持として1000石が義綱に安堵された。しかし義綱はこれを捨て出奔し、義綱庶兄の義通が岡本正親の甥であり娘婿である関係からこの1000石を継いだ。義通の跡は次男・塩谷惣十郎が家督を継いだ。 しかし保真は、正保元年(1644年)3月10日、甥の岡本義政の謀略により殺害され(泉騒動)、この騒動の結果、岡本義政とともに野州塩谷氏は改易となる。 その後、保真の三男保正が桜田御殿(徳川綱重)に仕え、のちに30俵扶持の幕臣となり、義通流の塩谷氏の命脈を細々ながら保った。保正から数えて5代目塩谷正義は幕府内で飛躍的な出世を遂げ、大坂や九州の15万石の天領を支配する日田の代官となり、最終的には西国郡代にまで出世した。正義は日田の名代官として称えられ、地元の人々に塩谷神社を建てて顕彰されるなど崇敬される存在となった。
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