塩谷義通とは? わかりやすく解説

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塩谷義通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 23:47 UTC 版)

塩谷 義通(しおのや よしみち)は、下野国塩谷郡戦国武将


  1. ^ 岡本保真流塩谷系図による。
  2. ^ 塩谷氏が信仰していた寺山観音寺の勧進を永禄7年(1564年)9月10日に義通(伊勢松丸)とともに行っている。永禄7年は干支では甲子年にあたり、60年に一度の甲子年の9月10日は、寺山観音寺の本尊が開帳される最も重要な日であるため、その日に義通を伴っていることから、義孝は、義通を後継者にしようとしていたと考えられている。
  3. ^ 但し、秋田塩谷系譜を見ると、義綱が家督を継いだのは天正2年(1574年)11月の事とされており、義綱が川崎城を奪還したのは永禄9年(1566年)の事であるため、約8年間のブランクがある。これは当時、義綱が幼く元服していなかったためだが、その空白期間に義通が繋ぎ的に塩谷氏の家督を継いでいた可能性が指摘されている。
  4. ^ 「高野山清浄心院下野国供養帳」に「塩谷岡本宮内為父立之 光叟道本(禅定門) 慶長四年十一月一日」とあり、岡本義保(岡本宮内)が、父塩谷義通のために、慶長4年(1599年)の義通の命日一周忌)に合わせて、供養を行った事が義通の戒名とともに記されている。


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