塩谷氏家督継承後
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天保7年(1836年)9月8日、父の正義が亡くなると塩谷氏の家督を継ぐ。弘化3年(1846年)4月、先祖の塩谷氏の菩提寺である長興寺に墓参するため下野国塩谷郡にまで赴き、先祖の供養料として祠堂金16両を寄進している。さらに嘉永4年(1851年)、正路は大夫となり豊後守に任官され、西の丸小納戸役頭取格に任命され、禄高も1500石まで上った。祖先が下野国塩谷郡にあった頃、塩谷義通流塩谷氏の初代である義通の領地が1000石であった事を考えると、それを上回る禄高を得た事になる。そして安政5年(1858年)6月、この年の10月に第14代将軍となる徳川家茂が徳川家定の世子となると、その家茂附となり、さらに嫡男の正是も小納戸役に任命されている。安政7年(1860年)正月、将軍となった家茂より、その功績を称えられ呉服を賜り、文久3年(1863年)3月、家茂が徳川将軍として230年ぶりに上洛した時には、嫡子正是がそのお供を命じられている。
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