塩谷氏と那須氏の攻防
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沢村城は塩谷氏と那須氏の勢力範囲の境界にあるため、両氏によりその所属が争われた。満隆の沢村氏が一代限りで断絶して以後も、沢村城は那須氏の城であったと思われるが、14世紀初頭には、塩谷氏の出城となっていた。ところが、塩谷方の沢村城代であった岡本備前守(岡本正親の岡本氏の一族ではない)が那須方に呼応して寝返り、那須方の城となった。 那須氏は、岡本備前守に代わって福原主膳という者を城代としたが、正和3年(1314年)4月20日、塩谷勢が沢村城を攻め落城させた。城代・福原主膳は大沢隼人正勝(政勝)に討ち取られ、塩谷氏は富田信濃守を沢村城代として置いた。ちなみに、「川崎塩谷伯耆守実録」によれば、この時「城代として塩谷家来岡本備前守遺し置ける処に備前守那須江一身に成、城をかため塩谷にせめむかふ由・・・」とあるので、この頃から、山城の沢村城が本格的に整備され始めた可能性が高いと考えられている。 しかし、元徳2年(1330年)2月28日、那須勢1千が沢村城を攻め、富田信濃守は那須方に降伏する。以後、しばらく沢村城は那須方の出城となった。応永2年(1395年)正月2日には、塩谷勢が沢村城奪還を企図して3千の兵で沢村城を包囲するも、この戦いに佐竹氏が介入、塩谷勢は兵を退かざるを得なくなり、塩谷氏家臣の和泉五郎の娘を那須方の沢村城代福原勝馬に嫁がせることで和睦したという。 那須家の上下分裂 『那須記』によると、沢村城は那須資氏が家の断絶を防ぐため、その子・資重に沢村氏を継がせて城主としていた。しかし沢村資重は兄・那須資之と対立し、資之は上杉氏の支援を得て花見の酒宴に弟・資重を呼び寄せ殺害しようとしたが、これを家臣・角田重安が資重に密告し失敗した。資重は佐竹氏の支援を得て対抗したが、応永20年(1413年)8月2日、那須資之は弟・資重の居城・沢村城に攻め寄せ、沢村城で那須氏の同族による戦いが始まった。 那須資之方と資重方の主な武将と総兵力 武将総兵力資之方堅田太郎兵ェ隆時、大関右ェ門尉増義、大田原兵ェ尉増氏、芦野弾正左ェ門資任、伊王野次郎左ェ門隆泰、稲沢五郎左ェ門隆定、河田六郎隆国、河田六郎兵ェ尉任資、佐久山次郎左ェ義範、荏原三郎左ェ門朝秀、蜂巣源平ェ光義 三百余騎 資重方稗田九郎兵ェ門朝信、池沢源五郎政信、川井六郎兵ェ安利、金枝左ェ門義隆、角田庄兵ェ重安、角田庄右ェ門(庄左ェ門)重利(重安弟)、熊田源兵ェ忠範、大俵(大桶大田原)三左ェ門光秀、館野越前守義弘(谷田の住人)、小口次郎兵ェ重勝、矢田弥佐ェ門宗忠(高岡村)、興野弥佐ェ門義清、滝田平左ェ門隆貞、千本十郎、森田次郎 百六十騎 この兄弟の争いは、那須記が「死体重なって塚の如く」と記すほどに壮絶なものであったという。ほぼ一日の戦いで、資之方300余騎・資重方160騎馬、両軍合わせて460騎に対して、戦死者が132人以上、負傷者も合わせれば272人以上であった。 結局、この沢村での戦いは、資重が沢村城から福原城へ撤退して終わった。沢村城は資之側のものとなり、城代には須藤五郎が入った。ただし那須氏の分裂は解消されず、資之系(上那須家)と資重系(下那須家)に分かれたままであった。 平城の沢村城(旧沢城)は、この戦いで壊滅的な打撃を受け廃城となった。この戦いでの死者は、高さ4m、周囲90mほどの円墳状の塚に埋葬され、回向塚(えこうづか)と呼ばれていたが、現在は壊滅している。しかし、明治27年ころに発掘調査が行われ、鎧、兜、馬具などが出土している。 塩谷氏の時代 寛正元年(1460年)4月18日、塩谷氏は再び沢村城を攻め、福原勝馬を捕らえて木幡村の川原にて斬首、沢村城は塩谷方のものとなった。塩谷氏は城代として大沢助十郎(隼人)を置いた。 文明4年(1472年)5月23日、文明5年(1473年)7月7日など、那須勢との小競り合いの記録が見えるが、沢村城は120年以上に渡って塩谷氏の支配が一応続いた。ただし、沢村城奪還を喜ぶ永禄6年(1563年)11月14日付の塩谷義孝の書状が残り、度々那須氏に沢村城を奪われるなど、その支配は不安定であった。その間、記録に残るだけでも26人もの沢村城代がいた。 那須氏の支配 しかし、天正13年(1585年)3月25日、薄葉ヶ原の合戦で宇都宮氏と那須氏が戦い那須氏が勝利すると、沢村城は那須氏が完全に掌握した。
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