旧沢城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/03 20:50 UTC 版)
矢板市教育委員会の「遺跡地図」には、旧沢城という城館が記載される。沢村城については、現在伝わる山城の沢村城の北側にあった旧沢城と呼ばれるこの平城(館城)を考慮する必要がある。例えば、沢村城では、那須家が上下に分裂するきっかけになった応永21年(1414年)の那須資之と資重の戦いが行われているが、これは、山城の沢村城の歴史ではなく旧沢城の歴史である。それは、那須記の記述を見れば明らかであり、旧沢城の跡地が、立地的に良好でありながら、明治29年に農学校が建設されるまで、耕作もされず人家も建てられず、草刈場として放置され続けたという事実も、それを裏付けている。但し、『矢板市史』は、この地が那須氏内紛の激戦地との見解を示しているが、旧沢城の位置づけとしては、沢村氏の居城のひとつという可能性に限定せず、沢村城の出城、あるいは家臣の屋敷跡の可能性も示唆している。 旧沢城は、同じ大字沢村の小字生袋にあったもので、現在も堀の跡が存在する。また昔には、百間(百軒)館と呼ばれた土塁の跡も残っていたが、こちらは現在は壊滅している。旧沢城については、那須氏の同族争いの時、壊滅的な打撃を受けて廃城になっているが、その戦いがあった応永21年(1414年)の戦以前の沢村城の歴史については、山城の沢村城か旧沢城のものか、それとも、山城の沢村城を軍事用の詰め城と考え、旧沢城の方を統治・居住のための城として、両城をひとつとして考えて良いものか、区別して考えなければならない。 しかし、ほとんどの場合、その区別がつけられないので、ここでは便宜上、両城をひとつの城として考えていくものとする。
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