塩谷義上預ヶ状について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/03 05:57 UTC 版)
乙畑城の歴史を記す貴重な文献として、「塩谷義上預ヶ状」というものが残っている。塩谷義上とは、『矢板市史』『ふるさと矢板のあゆみ』『喜連川町史』などによれば、塩谷義孝の弟で、喜連川塩谷氏の養子となって跡を継いだ塩谷孝信(惟吉)を指すとされている。その孝信が、川崎塩谷氏の内紛(塩谷孝綱養子・安芸守と小幡城主乙畑弥五郎の対立)に際して小幡城方につき、天正18年(1590年)11月16日に乙畑城の乙幡弥五郎(市史などは小幡義勝に比定)に、援軍・武器を送ると約定した内容とする。一方、塩谷氏の系図では、この書状の日付の時には、すでに孝信は存命ではなく、義勝も乙畑城主でもない。しかも同年の8月30日に喜連川塩谷氏は改易されている。 なお『喜連川町史 第2巻(資料編2)』収録の書状や『喜連川町史 第6巻(通史編1)』には「塩谷義上」が登場するが、孝信の子である惟久(朝隆・朝孝)(安房守)のことである。 しかしながら、それを踏まえた上でも、この書状は乙畑城の第一級資料であることには変わりなく、乙畑城には、当時、しめくるわ、ほそくるわ、いとくるわ、太曲輪、はう曲輪、はし本くるわ、中曲輪、ちゆう曲輪などの曲輪があったことが記されており、城の様子をよく伝えている。なお、現在も乙畑には、字名として堀ノ内、城ノ内、要害、大曲輪などの城跡を示す字名が残っており、城から西に少し離れたところにある乙畑小学校とその裏付近には馬場の字名が残っている。
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