乙畑城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 02:30 UTC 版)
乙畑城(おつはたじょう)は、栃木県矢板市大字乙畑にあった日本の城(山城)。平安末期築城、天正18年(1590年)8月30日廃城。乙幡城、小幡城などとも言う。
- ^ 『下野国屋形家併旗下家来衆之御帳』に「乙畑之城代」として名が見える。岡本清五郎については、根小屋城代(堀江山城)としても名が見えるが、この岡本清五郎については、『清』の名前から、清党岡本氏(清原氏系岡本氏)の一族である事は間違いないが、具体的に誰を指すかは不明。岡本清四郎を名乗った岡本照富、あるいは、『那須記』に岡本次郎五郎として登場する岡本正富のいずれかとも考えられるが定かではない。岡本清五郎が乙畑城代であった期間は不明である。
- ^ 『下野国屋形家併旗下家来衆之御帳』に「乙畑之城代」として、「岡本清五郎、同摂津守」として名が見えるが、誰かは不明。「同」という表記から岡本清五郎と一族とも考えられるが、単純に同姓であるだけで併記された可能性もあり、清党岡本氏か、岡本備前守や岡本大隅守のように、同じ塩谷氏の家臣でも、別系統の岡本氏の者であるかは全く不明である。
- ^ どちらも「那須記」の記述によるため、矛盾がある。但し、記されている巻は異なるため、どちらかは正しいとする両説と両方とも違うとする説の3つの説が存在する。
- ^ 対立の内容は「那須記」に拠っている。なお実際は山田氏などの仲裁で戦いには至らなかったという(『矢板市史』)。
- ^ 『ふるさと矢板のあゆみ』では、この「塩谷義上預ヶ状」を以て、改易が否定される可能性を指摘しているが、喜連川塩谷氏の系譜には『喜連川没落天正十八年寅八月晦日ニ阿波守牢人成リ(天正十八年=1590年。晦日=30日。阿波守=安房守の誤りで塩谷惟久(朝隆・朝孝)の事。牢人=浪人。)』と記されており、山中長俊の天正18年(1590年)8月22日付の書状にも、関東足利氏(後の喜連川足利氏)に対して、その時点で喜連川の地が与えられる事が約束されていた事が分かる事などから、天正18年(1590年)8月30日の時点で喜連川塩谷氏が改易された事は間違いないとされている。(『喜連川町史』『氏家町史』)
- ^ 塩谷朝業顕彰会編 『塩谷朝業』塩谷朝業顕彰会、1975年
[続きの解説]
「乙畑城」の続きの解説一覧
- 1 乙畑城とは
- 2 乙畑城の概要
- 3 塩谷義上預ヶ状について
- 4 参考資料
固有名詞の分類
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