坊山乙畑城説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/03 05:57 UTC 版)
昭和40~50年頃、乙畑城の西に坊山と呼ばれる台地があるが、ここが乙畑城であるとして、坊山乙畑城説が主流になりかけた事態が発生した。しかしながら、現在の乙畑城跡には、三重の堀切や犬走り、主郭に想定される曲輪などを始めとして、明白な城郭遺構が残るのに対して、坊山は、東西と南側の三方が切岸のようになっていて、台地の上が整地されたような地形になっている事から、城跡の存在を疑いたくなるような場所ではあるものの、城郭遺構そのものが全く存在しない。坊山は、いわゆる城跡類似遺構に過ぎないため、坊山乙畑城説は明らかな誤りである。近くに馬場に使われた広場があり、山を詰城部(主郭)に見立てると広場が居館部(二の郭、三の郭)となり連郭式の城郭に見えなくも無いため、誤解されたのではないかとも考えられているが、坊山には、城の防衛機能上、絶対的に存在しなければならない堀切が全く存在しない。三重の堀切が残る現在の乙畑城とは、全く対照的である。このため、現在においては、坊山乙畑城説は否定されている。
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